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2015年9月13日日曜日

健康を目指すとどうなるのか ~第6回CMECワークショプ~

[やる気がるとうまくいかない]
むしろ何もしないことが、決定的に大事なことだった。やる気があるとうまくいかない。健康を目指すとはどういう事なのか。

もっとも幸せな状態はどれだろうか。

①健康に気をつけて、長生きした
②健康に気をつけず、長生きした
普通はここまでしか見えていない。しかしまだあと2つある。
③健康に気をつけて、早死にした
④健康に気をつけず、長生きした

健康に気をつけず、長生きした、まあそれが一番幸せなのかもしれない。何もしないで長生きできれば、誰でもそうありたいわけだ。しかし現実には「健康に気を付けて」というような健康への“やる気”を出すような思想が常識的価値観として存在する。

高齢になれば誰しもが慢性疾患や身体不条理を感じる。大事なのは、抱えている当該疾患が原因となって死亡に至るスピードと本人の寿命そのものスピードの、競争のゆくえ。多くの場合、前立腺がんでは寿命のほうが先に尽きてしまう。前立腺がんでは死なない。病理学的な癌と、死因としての癌は全く別物。生き死に関係ない癌の取り扱いが肝要だろう。すなわち、がんをどこまで放置するかという問題が大事である。いわゆるトンデモ医療といわれるがんもどき理論の問題はここにあるといえよう。癌はあいまいなものである。消える癌、死因となる癌。早期発見ではその区別が分からないのだ。

[権威の問題が世の中を変えないかもしれないけれど]
健康問題に関する優れた研究は多い。しかし研究の質と情報の拡散の関係は相関しない。普及するというのは、なにがしかの誇張を含んでいる。健康に関する質の高い情報を多面的に伝えるのも医療者の重要な役割である。だがしかし、権威がないと話している内容について全く信用されないし、権威があれば、話している内容が信用されているわけではなく、単に権威に基づいた説明にすぎないという現実がある。世の中何も変わらないのではないかとさえ思えてくる構造があるが、それでも質の高い医療情報を積極的に発信する必要があることには変わりない。

医療に期待して長生きを目指すのは、割に合わない挑戦かもしれない。すでに日本人は1980年に想定された理想の生命曲線を超えた。(N Engl J Med 1980; 303:130-135[1]理想を実現してなおどこへ行くのか?75歳高齢者の平均余命はこの100年で大きく変わっていなかった。医療が高齢者の健康寿命延伸に貢献しているというのは幻か?

[大事なのはどうでもよさ]
健康寿命と平均寿命は相関する。健康寿命だけが延びているのではなく、不健康寿命も延びるのだ。寿命が延びたことがもたらすもの。病名をつけることで治療すると良くなるというような考え方に傾く。だがしかし長寿は確率の問題に過ぎない。健康で長生きすればよいのか?いつまでも長生きしたいというのは健康な考えか?不健康を包含するような健康感をもつことも必要であろう。

さて、健康寿命は誰がどう定義するか。どういった生き方にも価値がある。寝たきりで生きるのは価値がなないという世の中は大変な事だ。でたらめやるのも価値がある。様々なところで価値を見出すことで、その間に重要なものを見出したい。だいじなのはどうでもよさ。どうでもよい、という事になれば、支えはいらない。医療者が支える必要があるという社会が必ずしも良い社会ではないかもしれない。早く死ぬことに価値があると考えられること、そういった思想が良い面もある。介護の問題において、「自分の母に対して死んほしいと思っても良いですよ」という価値観を伝えたい。[2]むしろそれが医療者にとって重要な役割かもしれない。死んでほしいと思うのは生きていてほしいと思うから、だろう。




[1] フルテキストはFries JF..et.al. Aging, natural death, and the compression of morbidity. 1980. Bull World Health Organ. 2002;80(3):245-50. PMID: 11984612から読める。
[2] 水村 美苗 母の遺産―新聞小説 2012/3 中央公論新社

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