[お知らせ]


2014年12月24日水曜日

EBMの思想

[エビデンスの使い方、今年1年の思索]
医療と一口に言っても様々な方法論や考え方が存在します。僕ら薬剤師が関わる医療の方法論とて多岐にわたります。分類することの愚かさは重々承知ですが、しいて言えば基礎薬学的知見に重きを置いた方法論(化学構造式や病態生理に基づく考え方)や疫学的知見に重きを置いた方法論(いわゆるEBMはどちらかと言えばこちらでしょうか)また、近年話題に上ることも多い、「ワクチンはうたない方がいい」とか、「癌はほっとけ」というような、やや極端な医療の考え方もあれば、漢方医療、風邪への抗菌薬投与、あるいはセルフメディケーション、こういったアプローチも医療の考え方の一つです。“正しい医療”とは何か、以前考察しました。


“正しい医療”なんて存在しなくても、個人的には、現在用い得る、ヒトに対する再現性の優れた、最新かつ妥当性の高い情報を利用しながら医療を行うべきという考え方は変わっていません。人に対する再現性の優れた、最新かつ妥当性の高い情報、これすなわち一般的にエビデンスと呼ばれるものです。(EBMの実践において特に外部エビデンスと呼ばれるもの)僕は薬剤師にとってエビデンスは強力な武器になると以前申したことがあります。

医療とのかかわりの中で、EBMと出会ったころ僕は保険薬局勤務でした。現在の状況がどうなっているのか僕にはわかりませんが、当時は薬剤師の発言力はそれほど高いものとは言えず、説得力のある情報を提供するにはやはりエビデンスを活用するのが最も効果的であった、エビデンスは薬剤師の強力な味方となってくれる、そんな風に感じていました。もちろんこれは僕の場合に限った話ではありますが、やはり理論上正しくても、その根拠はどのように示されているのだ、と言った問いにも対応できる、エビデンスは非常に優れた武器でした。繰り返しますが、これは確かに武器でありました。

僕自身はEBMの実践と言えど、そもそも医師の臨床行動指針として概念化されたEBMについて薬剤師が何かを語るということはやはり、少々ナンセンスなのではないかなどと感じていましたし、たとえ薬剤師のEBMについてとはいっても、それを語れるほど何かを学んできたわけではありません。

ただ、この一年、EBMの実践について、特にエビデンスの使い方については様々な思索を重ねてきたように思います。特にEBMを学び始めたころ、エビデンスの押し付けに陥らないように、と言うようなことを常々意識してきました。EBMはエビデンスのみならず、患者の思い、その環境、そして医療者の臨床経験まで統合し最終判断を下すものなのだというEBMの基本的な概念を常に意識してきました。

そして、その結果実はあまり多くのことが変化していなかった。という事実も浮き彫りとなりました。EBMに関するワークショップや教育の機会は増加しているにも関わらず、相も変わらずDPP4阻害薬に代表されるような薬剤が売り上げのトップを占めている現状。EBMと言えど、エビデンスそのものを重視するのではなく、やはり重きを置いているのは文脈だったりする。特に薬剤師は処方箋という文脈の上に成り立つ医療に関わります。そういった中で、エビデンスを文脈から切り捨てて考える、そのようなエビデンスの活用法が垣間見えてきたのも今年に入ってからです。個人的には、メタ分析ではなく、一つのランダム化比較試験で有害性が示されたもの、あるいはランダム化比較試験で有効性が明確に示されていない新薬のようなものはやはり、文脈よりはエビデンスを重視したい、そんな風に考えてきました。

[臨床判断の思想構造]

 医療に関してその方針決定にかかわる思考は様々です。この思考プロセスはもちろん科学的妥当性、医学的妥当性が大きな割合を占めることと思いますが、僕はそれ以外の要素も大きく影響していると思うのです。でなければ、ワクチンはうたない方がいい、と言うような極端な思考プロセスがここまで話題になるはずがないと思うからです。EBMもそういった観点からは思想の一つではないかと最近思います。語弊があるかもしれませんが、より良い医療を目指すためのツールとしてのEBMがあるならば、何がより良い医療なのか、ある一定の思考プロセスに基づいて、決断している、これは考え方の一つであり、思想に他ならないと思います。

 考え方の多様化が進む現代社会において、思想は哲学や文学あるいは宗教ともその境界があいまいです。もともとヒトの考え方、思考プロセスにカテゴライズできるような明確な境界線は存在しません。ここからが宗教でここからが哲学そんな線引きは困難です。そういった思想や宗教において良い思想、悪い思想、そういったカテゴライズもまた意味をなさないことも自明でしょう。

 ただヒトは分類をする生き物です。分類と言う思想は人が有する根本的な価値観なのだと思います。カオスよりはましという仕方で“あれ”と“これ”を区別する。そして“あれ”と“これ”を共有する2つの集団が時に無用な対立を引き起こします。

 医療における考え方の違いが医療従事者の間でもやはり対立を生み出すのでしょう。ここで僕は思うのです。EBMはエビデンスを盾に誰かの行いを否定するようなことがあってはなりません。患者に対してであろうが、医療者どうしであろうが、EBMはエビデンスを用いながら人と人をつなぐ架け橋になる、そういう仕方で実践されるべきであると思います。エビデンスは武器になる、なんて言いましたが、「エビデンスをそんなふうに振り回したら危ないよ」って、きっと、そういうもんだと思います。

語弊があるのを承知で言えばEBMの思想は素晴らしいです。僕が薬学教育課程で学んできた病態生理学的思考プロセスを180度変えます。その破壊力は凄まじい。だから、時に他者と対立も起こします。自分の正しさに酔いしれます。なにせ「エビデンスはこう言ってるじゃないですか」、という究極のウエポンが使えます。他者を容易に否定できる危険な面があるのです。

ひとの幸せを考えるツールがEBMのはずでした。医療者どうしであろうが、患者に対してであろうが同じです。EBMの実践が自身の医療行為を正当化するために、しかもそれが、無意識に行われている、そういった可能性はあるのではないかと。僕自身そういう仕方でエビデンスを使ってきたんだと思います。文脈に歪められるべきが、エビデンスに歪められるべきか。その中道を行くことは可能か。それでは結局何も変わらないのでしょうか。
現実の医療と大きなギャップを示すエビデンスを前にどう行動すべきなのか、まず大事なのは、なぜそれをギャップと感じたのか、そういったところを取り出す作業から行いたいと僕は思いました。

[それでも僕は論文を読み続ける]

統計的有効性、あるいは医療者の主観的な改善効果の経験値。それらのいずれも患者の薬剤効果のクオリアを示しているわけではありませんが、僕は冒頭述べたように、現在用い得る人に対する再現性の優れた、最新かつ妥当性の高い情報に基づいて、妥当な治療薬を提案するだけです。それが受け入れられたとして、最終的に、はたして何が良かったかなんて言うのも、よくわかりません。

薬が効くというクオリアは共有することはおろか、一般化は不可能でしょう。突き詰めれば薬が効くとは極めてインテンションの問題ではないかとも思えるのです。僕らが通常考える、いわゆる真のアウトカムといえど個々の患者における薬剤効果のクオリアとは別問題なのでしょう。
より良いアウトカムを目指すというのは医療の基本構造ではあるが、より良いアウトカムってなんだ、という議論に乏しい仕方で構造化されている。

えらそうにEBMを分かったふうに言っていますが、僕は結局、論文を読まないよりは、少しだけマシな医療をしているだけかもしれない、僕はある意味ただ論文に関心があるということに過ぎないのかもしれない。そこは病識として肝に銘じたいと思います。「関心のないところにこそ重要なものがある」名郷先生がそうおっしゃっていたことを思い出しました。



今年1年、記事を読んでいただきました読者の皆様、誠にありがとうございました。今年も皆様に支えられここまで更新を続けることができました。
薬剤師の地域医療日誌1226日が本年最終更新となります。年明けは15日より更新を再開する予定です。
薬剤師のケースレポート日誌は本年の更新予定はありません。来年もインパクトのある症例報告を中心に症例報告から疫学的考察につなげ、当ブログにまとめていきたいと考えています。

本年もたくさんの方々に支えられ、様々な機会をいただき、また様々なことを学んできました。この場をお借りして御礼申し上げます。本当にありがとうございました。来年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

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