[お知らせ]


2013年7月17日水曜日

曖昧なまま受け入れること。

多くの臨床試験の結果の統計解析手法として用いられる推定・検定統計は真の値が想定されていることを前提に一つ一つの研究が真の値を求めています。それに対してベイズ統計は主観的な事前確率からスタートします。真の値も変数であり、真か偽かは問うていません。いや、真の値が変数であるということは、やはり真の値が存在することが前提として考えているのかもしれません。真の値と言うよりも、医療者が真の値と確信している「妥当な値」が変数なのではないかと考えると腑に落ちます。真の値を常に求めてはいるものの、実はそれは妥当な値にすぎない、そして真の値は存在しないかまるで手の届かないところにあるということです。医療者は正しい治療や診断というものが存在し、治療効果が有効、無効という思考過程の呪縛から逃れられない、ということが今となっては明確となっています。薬が効くかどうかを真か偽か、はっきりさせようとする推定検定統計を駆使した臨床試験の結果は、いうなればイメージにすぎません。そのイメージを言葉で表そうとしても限界があります。統計的有意かどうかは、イメージを言語化したものにすぎません。

薬が効くかどうかをはっきりさせたところで、薬を服用するかどうかの閾値は不変だということが実は多く存在します。これは薬が効くかどうかで服用するかどうかを判断していると思い込んでいるところに落とし穴があるのかもしれません。薬を飲むかどうかは、実は個人の環境や不利益、社会的な影響や家族の意思など他の諸条件で決まってくることも多いはずです。たとえば認知症におけるコリンエステラーゼ阻害薬やインフルエンザにおけるタミフルを考えてみれば…。タミフルが効くかどうかなんて実はどうでもいいかもしれません。薬を服用しているという事実が、正しい治療を受けており、感染を広めないために、社会に迷惑をかけていないという認識、すなわち社会的な不利益を回避しているという確信、そのような価値観で服用するか否かを実は判断していたりするのかもしれません。逆に、明日学校へ行きたくない、インフルエンザを早く治すことでなにか自分にとって都合の悪い状況になる、そんな思いでタミフルを飲まないという判断、要するにタミフルが効くか、効かないかなんて実はどうでもよいという構造が浮き彫りになってきます。

効果があるのか、ないのか、真か偽かを追い求める、治療の論文をどう解釈すれば良いのでしょうか。臨床試験の結果において有意差なしとはどういうことなのでしょうか。95%信頼区間を見ればリスクが減るのか、増えるのか、良くわからないことだけが明確に分かります。この良くわからないということを、良くわからないまま用いることで、医療者の経験的背景をもとにした事前確率と、あいまいな臨床試験の結果が尤度となり、薬剤の効果を考えるというベイズ的な思考を用いれば、ひとつの臨床試験の結果がはじき出した「有意差なし」というP値がいかに無意味なものかが整理されたように思います。治療の効果があるのか無いのか、有効か無効かという立ち位置を捨てることで見えてくる世界が変わります。そして一つの試験が有効か、無効かという事ではなく、医療者の主観的な価値観に薬剤の治療に関する情報を付け加えることでその後の価値観を常に変動させ、妥当な値得ることの方が、実は臨床にはフィットする考えであることに気づきます。その繰り返しの中で妥当な値が真の値に近づくような気もしますが、本当の真の値は存在すらしないのかもしれません。


有意差が出ている結果であっても明確なエビデンスなど存在しません。統計的に明確ではあるかもしれませんが、世の中この一般的現実世界に当てはまるかどうかなんて、まるで見当もつかないと言った方が良いかもしれません。95%信頼区間を頼りにどれだけ真の値を探そうとしても、そもそも真の値など存在しない、あるいはどこか手の届かないところにある、言い換えれば、どんな結果もあいまいで、モヤモヤしているという事です。この世の中一般的現実世界はモヤモヤしていることの方が多いです。逆に頭の中はエビデンスあり、なしみたいにすっきりしている。そのような思考こそ危険かもしれません。物事が起こり得るかどうか、曖昧なものの積み重ねという事前の発生確率に、曖昧な研究結果が付け加えられることにより、より曖昧になるという事が明確にわかる、実はその繰り返しで、僕たちは真実に近づこうとしているのかもしれません。真実は実にモヤモヤしているもの、逆に明確なものというのは実は真実と思い込んでいるだけで真実ではない、そんな気がしています。

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