[お知らせ]


2014年5月30日金曜日

病院薬剤師、薬局薬剤師、その意識統一がもたらすものは何か

東京女子医科大学病院が、ハイリスク薬の抗癌剤と免疫抑制剤について処方箋発行を院内に戻したという報道が話題となっています。これに対して、日本薬剤師会の常務理事である近藤剛弘氏は“「ふざけるな」”と反論し“「一部の医薬品を院内処方にするというのはもってのほか。患者に迷惑をかける」と指摘したうえで、地元薬剤師会には「何をやっているのか」と指導力を問題視した”と報道されました。
この報道に対して、本題に入る前に僕の正直な思いをあえて示しておきます。

 “様々な取り組みを模索する余裕もないほど日常業務に追われ忙しいなら、なおのこと結構じゃないですか。今更院内に戻すなんてけしからん、なんておかしくないですか。仕事が減って助かるんでしょう。”

おそらく、なんのこっちゃさっぱりでしょう。まあこれは僕の個人的な経験や価値観に裏付けされた思いです。逆に言えば、わかるわかる、という人がいれば、僕はその人と同じような経験をしてきたという事になります。
この病院の院外処方を受けていた薬局薬剤師が地域のため、患者のため惜しみない努力をしており、患者や処方医からの評価も十分得られていたうえでの院内処方切り替えであれば「ふざけるな」という思いに至るのは当たり前の価値観だと思います。現に僕は、僕以上に、はるか僕以上に努力し、地域に貢献されている薬局薬剤師の先生方を多く知っています。僕自身のこの思いを振り返れば、このような信念対立は、おおよそ、人それぞれの経験や価値観に依存していることがはっきりとわかります。

東京女子医大病院側の主張としては“「薬物療法の高度化を背景に、保険薬局において服薬指導を行う院外処方では患者の安全を十分に管理できないと判断。抗癌剤、免疫抑制剤の服用患者には、院内処方で副作用管理と指導を充実させる方針に転換した。」”とし、“「単に院内に戻して薬価差益を出すことは、今の社会的ニーズに全く合っていない」と薬価差益狙いを否定したうえで「ハイリスク薬については、保険薬局以上に質の高いファーマシューティカルケアを実践し、薬剤師外来の展開につなげていきたい」”としています。
保険薬局では質の高いケアを実践できないと暗に主張しているようにも取れます。

そして薬事日報より以下の記事が掲載されました。
“病院と保険薬局による切迫感、危機感の違い”と言明し“同じ薬剤師でも病院と保険薬局で意識の乖離が大きくなっているような印象も受ける。このギャップをどう埋めていくかが重要であり…まずは「医療人」としての意識を統一することが急がれる。それがきっかけとなり、将来的な職能発展につながると信じたい。”としています。

これら一連の記事が波紋をよんでいます。病院薬剤師と薬局薬剤師双方が意識を統一することで、真の薬剤師のあり様が見えてくる、なんていう主張は10年前から何も進歩していないのだと思います。こういう考え方そのものが、病院薬剤師、薬局薬剤師という二元論をまねいているという事に、そろそろ気づくべきではないでしょうか。「統一された意識、薬剤師の真のあり様」みたいなものを前提とする限り、病院薬剤師の取り組みが良いのか、薬局薬剤師が貢献していることの方が価値があるのか、と言った信念対立は解決しません。繰り返しますが、絶対に解決しません。なぜならばそれは「意識を統一しよう」という名の「天下統一」を目指している構造にあります。

[さまざまな取り組みの中で生まれ行く認識の違い]
認識の違い、と言うような信念の対立は誰しもが経験することだと思います。例えば、自身の取り組んできたこと、一生懸命にやってきたことが否定されてしまうというのは本当につらいですし、自分は間違っていないと思う、そんな体験は誰しもが持っているものと思います。

薬剤師と医療への関わり方、というテーマにおいても多様な取り組みがなされています。そのような中で取り組みを模索すればするほど、多様な意見や認識が生まれ、新たな概念が提唱されます。それについて、本当に正しいのか、そうでないのか、と言ったような議論も生まれ、ここに認識の違いが浮き彫りとなってきます。認識の違いは時に、信念の対立を生み出すこともあります。ヒトの本質は他者承認を求める自己意識としての欲望であるといえますから、こういった問題はどのようなテーマであれ少なからず存在するのだと思います。

認識の正しさと言うものがはたしてどれだけ意味のある物なのでしょうか。意識の統一化を図るというのは、洗練された真の薬剤師のあり様を前提とするという事ですが、フィクションや仮説を含む事柄や概念は、それが人々の間で共有されているかがさしあたって重要で、それが本当に正しいかどうかは実はあまり問題じゃないのです。ヒトは無意識のうちに自分の欠落感やアイデンティティー不安を埋めてくれるような物語なら、すすんで信じようとする構造をもっています。そして自分が抱く概念価値観の絶対性が、他人が抱く概念価値観と相対化された時にヒトはどういった行動をするのか考えてみてください。暴力により相手を屈服させるか、ルサンチマンを抱くか。自己中心性に基づけば自ずとそうなってくるのは自明です。有史以来、ひとは宗教対立、あるいは身分制度、そういった問題に対して争いや戦争を繰り返してきました。このように自我のアイデンティティーを優位に保ちたいと思う限り、相互了解を得るためのルール作りは難しいと言えます。

今回は自分へのメッセージとして、このようなケースをどう打開していけばよいのか、考察してみたいと思います。少々長くなりますがおつきあいください。

[高次の認識へ向かう中での信念対立]
ヘーゲルの精神現象学においては「意識が知と真の弁証法的運動を繰り返しながら認識の有り様を高めていくプロセス」を、すなわち経験といいます。対象の自体存在は普遍ではないということは非常に大事だと思います。『自体が自体の認識に対する存在となる』わけですが、しかしながら、対象の新しい真だと思われていた考えも、次の発見により、これも対象についての知に過ぎなかった、ということがわかります。やや難解ですが、簡単にいえば、ヒトの対象認識は一挙に対象についての真に到達することはない。そして真と知が交代運動を繰り返すなかで、高次の認識へ向かう。という事だと思います。

薬剤師の真のあり様みたいなものも、このプロセスの途中にあるものと思うし、だからこそ、いろんな方法論で、いろんな取り組みをすればいいと思います。それに対して、みな思うことはあるし、自分こそ正しいと思うのだけれど、ヒトの価値観は完全に一致させることはできないだろうことは自明です。だからこそ自由にさまざまな取り組みを模索できるのですが、一方でこの不一致はヒト同士の対立を産み出すこともありますよね。

真の薬剤師のあり様という認識においては主体間の幻想的身体の同一性に依存します。すなわち個人の価値観や経験的に身に着けたもの、そういったそれぞれ個々のアイデンティティーに依存するのです。真のあり様をめぐる対立を解消し、知と真の弁証法的運動により、より高次の認識へ到達するためには、個々様々な人たちの認識の一致、すなわち共通了解の可能性の原理を見いだすことが肝要です

[認識の違いはなぜ生まれるのか]
認識問題における実在物の認識は多くの人から共通了解を得ることが容易ですが、概念のような事柄を共有するのはなかなか難しい。例えば目の前にあるリンゴという実在物は誰にもリンゴとして認識されます。それは手にとったり、実際に食べてみてリンゴという確信を得ることが可能だからです。ヒトは原理的にすべての物を疑うことができるという権利を持っていますが、リンゴの質感や味と言うものは多くの人にとって疑えないものとして感じ得るでしょう。実在物に関して言えば、疑えないものと疑えるもののバランスにおいて、圧倒的に疑えないものの比率が高いことが多くの人に共通了解を得られることにつながっています。

しかしながら「統一された意識」あるいは「ことがら」のような概念はどうでしょうか。あなたは「神を信じますか?」と問われ、「私は信じます」と言う人もいれば「神など存在しない」という人もいます。この差はどこから来るのでしょうか。神を確信する根拠となっている“疑えないもの”は人それぞれの価値観、経験に裏付けされたものです。先に述べたように、人は原理的にすべての物を疑う権利を有しています。ただそれは“疑えるもの”と“疑えないもの”のバランスによって一応の均衡を保っているのです。このバランスが崩壊し、“疑えないもの”と言うものがなくなってしまえば、何度も「ほんとう」を確認し続けなくてはいけなくなってしまいます。明日、自分に隕石が落ちて、死んでしまう確率は0%ではない、というテーゼが示すように、外を歩くにも、「ほんとう」に安全か何度も確かめずにはいられなくなってしまう。ヒトは“疑えないもの”と言うものを失えば強迫性観念にとらわれ、日常生活を円滑におくることが難しくなります。話題がそれましたが、概念を共有するための共通了解に必要なことは、倫理的あるいは理論的な事柄の正しさでしょうか?例えば、ある事柄が正しいのか、間違っているのかをはっきりさせ、客観的な真理を示すことが、争いをなくすのでしょうか?

[認識の違いを超えるために]
争いを避けるための一つの要因がコストです。古代中国、魏呉蜀が三つ巴の戦を繰り返してきた時代、イナゴ被害による兵糧不足が休戦をもたらしたと言います。
そして、もうひとつの要因。それはヒトどうしの関係を保つための欲望が、自我のアイデンティティーを保つことよりも大きいという直感です。夫婦喧嘩を思い出してみればわかりやすいと思いますが、価値観の違いをどう乗り越えるか、これはもう互いの関係を良好に保つためには必須の作業であることは明確です。
言い換えれば、相互了解や共通了解を産み出そうとするには、倫理的に良いことだからという理由では決して生じないのです。良いか、悪いかの二元論が、共通了解の可能性を見いだせない構造は、まさに今のべてきた構造にあります。二元論が、発信しているメタメッセージは、俺の意見は絶対間違ってない、お前の意見はあり得ない、というこの二つに尽きるのです。

認識の違いをどう超えて、より高次の認識へ向かうには、互いの認識が正しいかどうかを議論することに意味はありません。そうではなく、まずは正しい認識など存在しない、というところからスタートするべきです。ある認識が正しいかどうかではなく、認識の確信として成立している構造そのもの探し求めることが大事であり、そうすることで、なぜそれぞれの認識に違いが出てくるのかということや、どういう条件があれば広く共通了解が生み出されていくのかということが見えてくる可能性があります。僕らはみんな、自分の関心に応じて物を見てるわけで、絶対に正しいことなんてどこにもないというところから始めなくてはいけません。

大事なのは「統一された意識(薬剤師の真のあり様)」、と「個々の薬剤師が思う取り組み方」の一致の問題において、世界観や価値観が、対立した際に、その共通了解の可能性の原理の問題へと編み変えを行わなければならないという事です。薬局薬剤師の取り組み価値、病院薬剤師の取り組み価値、あるいは相互批判というメタメッセージからもたらすものは明らかです。暴力により相手を屈服させるか、ルサンチマンを抱くか。そして相互了解を得るための認識の確信として成立している構造そのもの探し求めることの困難さは以下の2点に尽きます。
・攻撃されたルサンチマンを乗り越えることの困難さ。
・みずからの『感じ』の正統性を捨てることの困難さ。

冒頭、僕自身が感じた思いを正直に書きました。これに対する反論はもちろんあるはずです。そして僕のこの意見が出てきたのは僕自身の経験から確信されたものです。そして反論される方の意見もそのかたの経験から確信されたものです。攻撃されたルサンチマンを乗り越え、みずからの『感じ』の正統性を捨てること、お互いの経験から見て取れる、薬剤師を取り巻く構造から共通了解を導き出すことこそ肝要です。これは僕自身の問題でもあります。
薬局薬剤師の質のバラツキを示唆させる報道もありました。これが意味するところはいったい何なのでしょうか。ジェネラルに対応せざるを得ない薬局薬剤師に専門性を求めることが問題なのでしょうか。(これは僕の意見ですが、ジェネラルと言うのは一つの専門性です。)
少なくとも薬剤師が急ぎ「医療人」としての意識を統一すべきだとか、自我のアイデンティティーを優位に保ちたいというメタメッセージを発信している限り、将来的な職能発展につながることは絶望的と言わざるを得ないと思います。そこには患者への目線がありません。

僕らが目指すべきはいったいなんだったのでしょうか。すべては患者とその家族のために、そして地域のために。基本となっている構造への共通認識はできているはずなんです。よりよい高次の認識へ至るためにも、あらゆる立場の薬剤師が振り返って考えてみる必要がありそうです。

2014年5月24日土曜日

抗菌薬関連大腸炎とKlebsiella oxytoca

[偽膜性大腸炎のClostridium difficileと出血性大腸炎のKlebsiella oxytoca]
クロストリジウムディフィシル(Clostridium difficile)は抗菌薬関連下痢症及び偽膜性大腸炎を引き起こす最も一般的な病原性微生物として有名です。特にクリンダマイシンやキノロン系薬剤ではそのリスクが上昇すると言います。

Community-associated Clostridium difficile infection and antibiotics: a meta-analysis.
J Antimicrob Chemother 2013 Apr 25.PMID:23620467

Meta-analysis of antibiotics and the risk of community-associated Clostridium difficile infection
Antimicrob Agents Chemother.2013 May;57(5):2326-32.PMID:23478961

抗菌薬投与に関連した大腸炎、特に出血性大腸炎に関しては原因ははっきりしていないものの、Clostridium difficileとは別の微生物との関連が示唆されています。クレブシエラ・オキシトカ(Klebsiella oxytoca)はグラム陰性桿菌で肺炎や尿路感染症の起炎菌として有名なKlebsiella pneumoniaeと同族の微生物です。ペニシリン系抗菌薬に対して自然抵抗性を有しており、アンピシリンやアモキシシリンは臨床的に無効です。Klebsiella oxytoca の病原性については議論の余地があるようですが、腸内に常在しているケースもあり、臨床的に無効なペニシリン系薬剤が投与された際に抗菌薬関連腸炎を引き起こす可能性があると言われています。

[アモキシシリンと出血性大腸炎]
アモキシシリンの添付文書の重大な副作用に関しても記載がある出血性大腸炎ですが、本邦でもアモキシシリン投与に関連すると考えられる出血性腸炎の症例報告は、いくつか存在します。

①アモキシシリン投与後にみられた急性出血性大腸炎の1
歯科薬物療法Vol. 5 (1986) No. 3 P 135-183
Amoxicillinによる急性出血性腸炎の1
日本大腸肛門病学会雑誌Vol. 37 (1984) No. 2 P 128-131
Amoxicillin (AMPC) による抗菌性物質起因性出血性大腸の4
歯科薬物療法Vol. 16 (1997) No. 1 P 6-9

このうち①ではKlebsiella oxytocaが単離されているようですが、②では単離されませんでした③の報告では4例中Clostridium difficile1例で残り3例は便培養陰性でした。症例報告をいつくか見てもKlebsiella oxytocaと出血性大腸炎との関連性はよくわからないのですが、Clostridium difficileが検出されない抗菌薬関連性大腸炎においてKlebsiella oxytocaとの関連性が示唆された報告があります。

[Klebsiella oxytocaは抗菌薬関連出血性大腸炎と因果関係があるのか]

Klebsiella oxytoca as a causative organism of antibiotic-associated hemorrhagic colitis.
N Engl J Med. 2006 Dec 7;355(23):2418-26. PMID: 17151365

Clostridium difficile陰性で抗菌薬関連大腸炎を疑われた22人の連続した患者を対象に大腸内視鏡検査で抗菌薬関連出血性大腸炎と診断された6例について、Klebsiella oxytocaと抗菌薬関連大腸炎との関連について調査した報告があります。
6例中5例にKlebsiella oxytocaが単離され、すべてがペニシリン系薬剤を使用していました。また一部ではNSAIDsも併用されていました。出血性下痢や腹部痙攣は抗菌薬治療の3から7日後に発症し、抗菌薬の中止で5人すべての患者は完全に回復しました。回復までは平均4日でした。分離されたすべてのKlebsiella oxytocaは、細胞毒素を生産したと報告されています。

症例
年齢
性別
使用していた抗菌薬
とその他の薬剤
抗菌薬投与から
発症までの時間
回復までの時間
36
男性
アモキシシリン・クラブラン酸
7
3

28
女性
アモキシシリン・クラブラン酸
4
4
63
女性
アモキシシリン
メトロニダゾール、NSAID
5
3
37
女性
アモキシシリン・クラブラン酸
NSAID
3
4
53
男性
アモキシシリン
クラリスロマイシン
4
7
このようにKlebsiella oxytoca、は抗菌薬関連出血性大腸炎の原因である可能性が示唆されています。

[Klebsiella oxytocaは抗菌薬関連非出血性大腸炎と因果関係があるのか]
Klebsiella oxytocaが非出血性の抗菌薬関連下痢症の原因となるかどうかについての報告もあります。

Role of Klebsiella oxytoca in antibiotic-associated diarrhea.
Clin Infect Dis. 2008 Nov 1;47(9):e74-8. PMID: 18808355

371例の連続症例のうち15例にKlebsiella oxytocaが単離されました。しかしながら以下の4グループにおいて、Klebsiella oxytocaと非出血性大腸炎との関連性を見つけることはできませんでした。また抗菌薬使用で下痢を発症したグループ①において、非出血性大腸炎ではKlebsiella oxytocaは単離されませんでした。


下痢症状あり
下痢症状なし
抗菌薬
使用あり
[グループ①]
107人、平均68.3
C.difficile12人(11%)
■非出血性腸炎89
Klebsiella oxytoca0
■出血性腸炎18
Klebsiella oxytoca4(4%)
[グループ②]
93人、平均67.1
C.difficile0人(0%)
Klebsiella oxytoca1人(1%)
抗菌薬
使用なし
[グループ③]
60人、平均62.4
C.difficile2人(3%)
Klebsiella oxytoca5(8%)
[グループ④]
111人、平均62.9
C.difficile0人(0%)
Klebsiella oxytoca5(5%)

この報告ではKlebsiella oxytocaは、非出血性抗生物質関連下痢症の原因ではない可能性が示唆されています。

[まとめ]
Klebsiella oxytocaは抗菌薬(特にペニシリン系薬剤)を使用した際に起こり得る、出血性大腸炎の原因微生物である可能性が示唆されている。
Klebsiella oxytocaはペニシリン系薬剤に自然耐性を有するため、例えばアモキシシリンなどを長期間使用する溶連菌治療などにおいては出血性大腸炎に留意する必要がある。
Klebsiella oxytocaによる出血性大腸炎が疑われた際は、ペニシリン系抗菌薬だけでなく、NSAIDsの使用も中止した方が良いかもしれない。

現時点ではKlebsiella oxytocaが非出血性大腸炎を引き起こすかどうかは不明である。

2014年5月18日日曜日

平成26年度第2回薬剤師のジャーナルクラブの開催のお知らせ

平成26年度第2回薬剤師のジャーナルクラブを以下の通り開催いたします!

ツイキャス配信日時:平成26525日(日曜日)
■午後2045分頃 仮配信
■午後2100分頃 本配信
なお配信時間は90分を予定しております。

※フェイスブックはこちらから→薬剤師のジャーナルクラブFaceBookページ
※ツイキャス配信はこちらから→http://twitcasting.tv/89089314
※ツイッター公式ハッシュタグは #JJCLIP です。
ツイキャス司会進行は、精神科薬剤師くわばらひでのり@89089314先生です!
ご不明な点は薬剤師のジャーナルクラブフェイスブックページから、又はツイッターアカウント@syuichiaoまでご連絡下さい。

[症例9:禁煙補助薬で簡単に禁煙できるものでしょうか?]

[仮想症例シナリオ]
あなたは、病院勤務の薬剤師です.
循環器病棟を担当しているあなたは、このたび入院となったAさんの患者の病室へと向かいました。

(あなた)「こんにちはAさん、お体の具合はいかがですか?」
Aさん)「なんとか生きてるよ. また救急車で運ばれて、女房にもさんざん怒られたし、医者の先生にも結構注意されちゃってね. 生活習慣を改めろって. でも、やっぱりタバコはやめたくないんだよなぁ…。あの吸ったときの何ともいえない感覚が好きでね. 病院では気軽に吸えないから参っちゃうよ. 女房からはいい加減止めろとは言われてるけれど、全然やる気がおきないよ」

Aさんは55歳でIT企業の中間管理職. このたび急性心筋梗塞で搬送されていました. 今回が2回目入院で、前回入院時も禁煙指導は受けたものの3日で断念. 喫煙は20/日を30年間継続しています。

(あなた)「うーん、たださすがに2回も入院となると、これはさすがに禁煙された方がいいんじゃないですか?最近は禁煙のための薬がありますし」
Aさん)「ああ、医者にもそう言われて耳タコだよ. でも、薬で楽に辞められるって、本当にそうなの?どれくらい薬を飲んだらいいの?できれば、ぱっと止められるものがいいなぁ…」
(あなた)「……」

禁煙治療薬のバレニクリンについては、3ヶ月の継続服用や、副作用の吐き気や意識障害等があることを知っていましたが、どの程度の禁煙達成効果があるのか、よくわかりませんでした。そこで、薬剤科に戻ってさらに調べてみることにしました. 苦労して検索した結果. 2010年のCirculationの論文を見つけることができました.

[文献タイトル・出典]
Efficacy and safety of varenicline for smoking cessation in patients with cardiovascular disease: a randomized trial.
Circulation. 2010 Jan 19;121(2):221-9 PMID: 20048210

[ランダム化比較試験をどう読む?]
今回は岡山で開催したリアルワークショップ「抄読会を作るワークショップ」に参加していただいた皆様が作成したシナリオをもとに @pharmasahiro先生に再構成していただきました!お忙しいところ、設定ありがとうございました!
今回もランダム化比較試験を初めからていねいに第2弾という企画で、基本からゆっくり解説していく予定です!

ランダム化比較試験に関する予習ポイントは第1回ジャーナルクラブの解説をご参照ください!
ワークシートはこちらを使用します!


薬剤師のジャーナルクラブ(Japanese Journal Club for Clinical Pharmacists:JJCLIPは臨床医学論文と薬剤師の日常業務をつなぐための架け橋として、日本病院薬剤師会精神科薬物療法専門薬剤師の@89089314先生、臨床における薬局と薬剤師の在り方を模索する薬局薬剤師 @pharmasahiro先生、そしてわたくし@syuichiao中心としたEBMワークショップをSNS上でシミュレートした情報共有コミュニティーです。

2014年5月7日水曜日

構造主義薬学論への挑戦

ヒトは身体不条理という「現象」をどう伝えるのでしょうか。風邪をひいて体がだるい、あるいは咳がつらい、頭が痛い、と言うような病気による身体不条理は、ヒトの前に立ち現れる現象です。身体不条理を緩和するためにも、医療機関を受診し、何らかの治療を受けるという行動はごくごく自然な振る舞いではあります。

僕にはずっと気になっていたことがあります。患者―医療者間で、例えば痛みの度合いそのものの感覚、すなわち痛みの「クオリア」を感じることはできないけれど、「痛い」という現象を共有することができます。
「おなかが痛いです」
「どんなふうに痛いですか?」
「わき腹がずきずきするような鋭い痛みです」
「それはお辛いですね」
痛み自体の感覚を共有しているわけではありませんが、「鋭い痛み」を共有することはできるのです。

同じように例えば『なんとなくだるい』という身体不条理を「なんとなくだるい」というクオリアを感じることなしに他人と共有することができます。
これは、「なんとなくだるい」という“ある種の規則に従ったヒトのふるまい”を共有しているからに他ならないと思います。身体不条理を伝え、共有することはある種の「言語ゲーム」なのだと思います。すなわちヒトの感覚が一致しているから、言葉の用法が、一致するのではなく、言葉の用法が、一致するから、ヒトの感覚が一致している、という確信が産み出されるわけです。「痛い」という感覚を感じ、「痛い」と言うことは、痛さのふるまいであり、ヒトはふるまいが、一致することの結果、痛さの感覚を共有しているという確信が生まれるのだと思います。

※言語ゲームについては苫野先生のブログ
苫野一徳Blog(哲学・教育学名著紹介・解説):ウィトゲンシュタイン『哲学探究』
をご参照いただくか、以下の書籍が参考になります。

ここで大切なことに気づきます。コトバが病名や症状と一対一で対をなし、それを共有しているわけではないのです。コトバとは、客観的な根拠によって成りたっておらず 「伝統的文化的に決められた生活様式というルール(=振る舞い)」 を根拠として述べているにすぎないものです。生活様式というルール(=振る舞い)が変われば、言葉も変わるし、新たな現象が独立して分節されることもあります。それが病気が生み出される瞬間でもあります。

コトバによって世界が初めて分節されるというのは、いささか大げさなのかもしれませんが、コトバとは名前のリストであり、既存の物事や観念と一対一の対をなしているというのは錯覚に過ぎないという点は非常に重要です。病名も、その症状と一対一の対をなしているというのは錯覚に過ぎないというわけです。

例えば、人類に医学や薬学が、全く存在しない別の世界があったとして、宇宙人が、ヒトの医学を発展させたとしたら、病気のカテゴライズや、医療そのものが、おおよそ全く想像もつかないものになるだろうことは、分かりやすい例ではないでしょうか。現象と病名が、一対一で対応しているよう見えるだけなのです。

現在の医療構造は病名という枠組みの中で、あるいは新規に生み出された病気という概念の枠組みの中で、病態生理と、それに対応する薬理作用(抗精神病薬のように逆のパターンもありますが)をもとに医薬品開発が行われ、やがて医薬品市場が動き出し、薬物治療が体系化されていきます。しかしながら本来病名としてカテゴライズされているものは恣意的な対応に過ぎず、この病気にはこの薬が効くという構図には原理的になり得ないのかもしれません。薬学部では病態生理を学び、薬理学を学び、それらが一対一で対応する形で、薬はこのように効果を示す、こういった系統の薬剤で、このような疾患に用いる、というような教育がされていました。(少なくとも僕ら4年生カリキュラムにおいて)

本来薬の効果は真のアウトカム、代用のアウトカムの2つに分けられることは何度も述べてきましたが、時間の概念をそれほど多く持たない代用のアウトカムは人の一生における薬剤の効果を規定することはやや難しい側面があります。真のアウトカムを追うという作業が薬剤効果を規定するうえで大変重要になってきますが、薬学部教育では残念ながら「時間」という概念を教育される機会こそ稀です。薬が生体の中でどのように作用するのかを学ぶことは多いものの、薬がどの程度ヒトの生存“期間”あるいは症状持続“期間”に影響を与えるのかという「思考」を学ぶ機会はほとんどないでしょう。言い換えれば病態生理と病名、そして薬の効果をカテゴライズし、単に知識としてそれを教育することはあっても、現象に対して薬が人の一生にどのような影響をもたらしていくのかを考察するような教育体系はできていないのです。


少し話題がそれましたが、このようなカテゴライズ化された薬学的知識は、知識として体系化されたものであり、現実世界において、どの程度の“実効性”があるのか、個人的にはとても興味深いテーマではあります。現象に対する薬剤のあり方、まこと勝手ではありますが、“構造主義薬学論”とでも名付けようか、思案中ではあります。病名や薬理作用ありきの薬学、このままで良いのか、薬剤効果の科学的正しさなんてどうでもいい、薬の効果なんて、実は案外気まぐれなんじゃないか…、病態生理+薬理作用ありきで考えれば、効果があるはずだと錯覚しそうになりますが、そんな三段論法のように実臨床ではそうそう、うまくいかないのは臨床医学論文が示す通りです。まあ少し掘り下げて考えてみたいと思います。

2014年5月2日金曜日

お知らせ(プライマリ・ケア連合学会)

個人的なお知らせです

プライマリ・ケア連合学会ではプライマリ・ケア認定薬剤師制度があります。認定薬剤師のための講習会は日本各地で定期的に行われていますが、このたび、プライマリ・ケアを体系的に学習するためのテキストが発売されます。

日本プライマリ・ケア連合学会

僕も、「第8章 プライマリ・ケアにおけるセルフメディケーション」の4 健康食品の知識と活用を執筆させていただきました。プライマリ・ケアにおける健康食品の考え方、取り扱い方をほんの少しまとめさせていただいております。プライマリ・ケアにかかわる薬剤師の先生がたにおかれまして、日常業務のご参考になれば、これほど嬉しいことはございません。

また@89089314先生、@pharmasahiro先生と一緒に取り組まさせていただいている、EBMスタイル論文抄読会薬剤師ジャーナルクラブ」の活動報告を、510日、11日に開催されます、第5プライマリケア合学会学術大会でポスター発表いたします。

薬剤師のジャーナルクラブ
~インターネット上でEBM学習の場を提供する取り組み~
一般演題(ポスター)45生涯教育①演題NoP-227


前景疑問に対する問題解決手法を薬学部教育で学ぶ機会は本当に少ないです。薬が生体の中でどのように作用するのかを学ぶことは多いけれども、薬がどの程度ヒトの生存期間あるいは症状持続期間に影響を与えるのかという「思考」を学ぶ機会が僕は本当に少ないと感じました。臨床医学論文抄読会をインターネット上で公開し、日本全国の薬剤師が誰でも気軽に医学論文の批判的吟味を体験し、実際の患者へどのように適用させていくか考察しながら、EBMの手法を学ぶ機会を提供するというこの取組は、さらにインターネット上での臨床医学論文抄読会を主軸としたEBMスタイル教育システムが薬剤師臨床教育プログラムとしての役割を果たせるものかを、皆様から頂いたコメントをもとに考察いたしました。お時間がございましたら、是非お立ち寄りください。