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2014年5月7日水曜日

構造主義薬学論への挑戦

ヒトは身体不条理という「現象」をどう伝えるのでしょうか。風邪をひいて体がだるい、あるいは咳がつらい、頭が痛い、と言うような病気による身体不条理は、ヒトの前に立ち現れる現象です。身体不条理を緩和するためにも、医療機関を受診し、何らかの治療を受けるという行動はごくごく自然な振る舞いではあります。

僕にはずっと気になっていたことがあります。患者―医療者間で、例えば痛みの度合いそのものの感覚、すなわち痛みの「クオリア」を感じることはできないけれど、「痛い」という現象を共有することができます。
「おなかが痛いです」
「どんなふうに痛いですか?」
「わき腹がずきずきするような鋭い痛みです」
「それはお辛いですね」
痛み自体の感覚を共有しているわけではありませんが、「鋭い痛み」を共有することはできるのです。

同じように例えば『なんとなくだるい』という身体不条理を「なんとなくだるい」というクオリアを感じることなしに他人と共有することができます。
これは、「なんとなくだるい」という“ある種の規則に従ったヒトのふるまい”を共有しているからに他ならないと思います。身体不条理を伝え、共有することはある種の「言語ゲーム」なのだと思います。すなわちヒトの感覚が一致しているから、言葉の用法が、一致するのではなく、言葉の用法が、一致するから、ヒトの感覚が一致している、という確信が産み出されるわけです。「痛い」という感覚を感じ、「痛い」と言うことは、痛さのふるまいであり、ヒトはふるまいが、一致することの結果、痛さの感覚を共有しているという確信が生まれるのだと思います。

※言語ゲームについては苫野先生のブログ
苫野一徳Blog(哲学・教育学名著紹介・解説):ウィトゲンシュタイン『哲学探究』
をご参照いただくか、以下の書籍が参考になります。

ここで大切なことに気づきます。コトバが病名や症状と一対一で対をなし、それを共有しているわけではないのです。コトバとは、客観的な根拠によって成りたっておらず 「伝統的文化的に決められた生活様式というルール(=振る舞い)」 を根拠として述べているにすぎないものです。生活様式というルール(=振る舞い)が変われば、言葉も変わるし、新たな現象が独立して分節されることもあります。それが病気が生み出される瞬間でもあります。

コトバによって世界が初めて分節されるというのは、いささか大げさなのかもしれませんが、コトバとは名前のリストであり、既存の物事や観念と一対一の対をなしているというのは錯覚に過ぎないという点は非常に重要です。病名も、その症状と一対一の対をなしているというのは錯覚に過ぎないというわけです。

例えば、人類に医学や薬学が、全く存在しない別の世界があったとして、宇宙人が、ヒトの医学を発展させたとしたら、病気のカテゴライズや、医療そのものが、おおよそ全く想像もつかないものになるだろうことは、分かりやすい例ではないでしょうか。現象と病名が、一対一で対応しているよう見えるだけなのです。

現在の医療構造は病名という枠組みの中で、あるいは新規に生み出された病気という概念の枠組みの中で、病態生理と、それに対応する薬理作用(抗精神病薬のように逆のパターンもありますが)をもとに医薬品開発が行われ、やがて医薬品市場が動き出し、薬物治療が体系化されていきます。しかしながら本来病名としてカテゴライズされているものは恣意的な対応に過ぎず、この病気にはこの薬が効くという構図には原理的になり得ないのかもしれません。薬学部では病態生理を学び、薬理学を学び、それらが一対一で対応する形で、薬はこのように効果を示す、こういった系統の薬剤で、このような疾患に用いる、というような教育がされていました。(少なくとも僕ら4年生カリキュラムにおいて)

本来薬の効果は真のアウトカム、代用のアウトカムの2つに分けられることは何度も述べてきましたが、時間の概念をそれほど多く持たない代用のアウトカムは人の一生における薬剤の効果を規定することはやや難しい側面があります。真のアウトカムを追うという作業が薬剤効果を規定するうえで大変重要になってきますが、薬学部教育では残念ながら「時間」という概念を教育される機会こそ稀です。薬が生体の中でどのように作用するのかを学ぶことは多いものの、薬がどの程度ヒトの生存“期間”あるいは症状持続“期間”に影響を与えるのかという「思考」を学ぶ機会はほとんどないでしょう。言い換えれば病態生理と病名、そして薬の効果をカテゴライズし、単に知識としてそれを教育することはあっても、現象に対して薬が人の一生にどのような影響をもたらしていくのかを考察するような教育体系はできていないのです。


少し話題がそれましたが、このようなカテゴライズ化された薬学的知識は、知識として体系化されたものであり、現実世界において、どの程度の“実効性”があるのか、個人的にはとても興味深いテーマではあります。現象に対する薬剤のあり方、まこと勝手ではありますが、“構造主義薬学論”とでも名付けようか、思案中ではあります。病名や薬理作用ありきの薬学、このままで良いのか、薬剤効果の科学的正しさなんてどうでもいい、薬の効果なんて、実は案外気まぐれなんじゃないか…、病態生理+薬理作用ありきで考えれば、効果があるはずだと錯覚しそうになりますが、そんな三段論法のように実臨床ではそうそう、うまくいかないのは臨床医学論文が示す通りです。まあ少し掘り下げて考えてみたいと思います。

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