[お知らせ]


2015年8月26日水曜日

現象を救え!~医療において真の理論メカニズムは必要なのか~

Naは水と激しく反応するので、石油中に保存しておく。そんなことが高校の科学の教科書、そう、たしか無機化学のところに書いてあったような気がする。アルカリ金属であるナトリウムは非常に反応性が高い。ナトリウムは金属と言ってもごつごつ硬い物質ではなく、非常に柔らかい。カッターナイフで容易に切断可能だ。ごく少量のナトリウムを水の中に入れるとどうなるか。まあ理論上は以下の反応式が急激に進むことになる。

2Na +2 H2O 2NaOH + H2…①

どうやら水素が出てくる。これが反応熱により空気中の酸素と結びつき「ボンっ!」と爆発、燃焼すると言われている。ようは水素が反応しているというわけだ。水素に火が付く、まあ言ってみれば水素爆発みたいなことが起きているんだ、と高校時代に思った。

この「ボンっ!」という爆発現象を僕たちは目で見て、耳で聞いて、それを知覚できる。しかし実際に①のような反応が一瞬で進行して、ナトリウムと水酸基がくっ付いて、水素がふわふわと出来上がり、それがなんだか“熱”なんていう得体のしれないものによって、急激な酸化反応がおきる過程を目視できるわけじゃない。爆発現象は観察可能だが、①の反応そのものは観察不可能だ。そもそも“Na”を見たことがあるかい?それはこの世に実在するのだろうか。便宜上、記号として置いたものなんじゃないの?

Na”なるものが真に存在するのか、という議論を科学実在論争という。まあこの論争自体をここで掘り下げるつもりはない。非常に興味深いテーマだが、このあたりは僕の理解を超えている。いずれにせよ僕が知覚できたのは「ボンっ!」という現象だけである。この現象のメカニズムがどうあれ、水にナトリウムをぶち込んだら危険極まりないという事は分かる。だから僕はナトリウムなんてものが目の前にあったら、その場から一目散に逃げるだろうし、もしくはそっと灯油に浸すだろう。とどのつまり、「ボンっ!」という爆破の原因が水素爆発だろうが、まあそんなことはどうでもいい。

しかし、「原因なんざ、どうでもいい」なんて理科の先生が生徒に教えていたらどうなるだろうか。「いい加減なこと教えているんじゃない!」「科学の教師なのに実は知らないんじゃないの…」「ふざけているのか?」なんて言われるのは当然のことのように思える。しかし、僕はこの「どうでもいい」に案外賛成だ。

ナトリウムと水が反応して爆発が起きる原因、近年の研究で明らかになったのは電荷移動により生じたクーロン力の反発による示唆だ。

Mason PE.et.al. Coulomb explosion during the early stages of the reaction of alkali metals with water. Nat Chem. 2015 Mar;7(3):250-4PMID: 25698335

ナトリウムはイオン化傾向が非常に高い元素である。ここまでは高校の教科書に書いてある。このナトリウムが水と接触すると、ナトリウムから水に向かって電子が一気に放出されナトリウム内部は急激に正電荷を持つことになる。原子核は正電荷を帯びているため、強力な反発力は内部からナトリウムを一気に崩壊させる。体内から爆発してもうぐちゃぐちゃになるというイメージか。ナトリウムが針状に飛び散るという。ナトリウム自体は柔らかいので、原型をとどめることができずに内部から爆発するというわけだ。崩壊したナトリウムは水との接触面積を増大させるために①の化学反応が連鎖的に進むらしい。「ボンっ!」はクーロン力による爆発だった、まあそんなことが最新の研究で明らかになったわけだ。(解釈に誤りがあればご指摘ください)

この研究結果が真であれば「ボンっ!」のメカニズム理論はこれまでと大きく異なる。より科学の真理に近づいたという事であろうか。いや僕は心理に近づくとか、そういったことが重要ではないように思える。経験的に十全な理論を構築することでヒトはなんら問題なく日常生活をおくることができるといえば言い過ぎだろうか。科学的理論は現象を救うことができれば十分である、と言う考え方は臨床現場にフィットする。このような考え方が科学、それも化学の分野にフィットするかどうか、僕にはわからない。また医薬品開発の現場、基礎研究分野においてはフィットしないことも多々あるだろう。しかし、臨床現場においてこのような現象を救う理論こそ重視したい。メカニズムの真理がどこにあるかは大きな問題じゃない。あのいいかげんな理科の先生が言ったように「まあ、そんなことはどうでもいい」に案外賛成なのだ。


最新の研究結果で明らかとなる意外なメカニズムも、人間が知覚しうる現象そのものを大きく変えるわけじゃない。大事なのは、メカニズム理論にこだわることではなく、起こりうる現象の因果関係を適切に類推できることであり、経験的に十全な理論構築を重視したい。理論の真理を目指すことを否定するつもりはない、ただ僕はそんないいかげんな薬剤師なのだという事である。


[メカニズム理論が不要なわけじゃない(追記)]
思うところがあるので補足する。本稿の記述には反論もあるだろう。メカニズム理論は不要なのか、研究者はただの無能な存在なのか、理論メカニズムの追及は時間の無駄か、経験からしか現象を説明できないのであれば、経験できないことはずっとわからずじまいではないか…。

僕はそんなことを主張するつもりはない。本稿の理論を以下の2つの視点から擁護する。

①身体不条理に悩む患者を前に立つ医療者の立場と(非臨床)研究分野の一線で活躍する立場の違い
②メカニズム理論の多様性を認める立場であり、現象を重視するが一つのメカニズム理論にコミットしないという立場が理解されていいない。

身体不条理に悩み、それをどうにかしてほしいという患者を前に、とりあえず今できる思考プロセスはなんとか、その現象を救う事である。そのためにしばしば大事なのは、何をどうすれば現象の改善が、どの程度見込めるかという事であり、多くの場合で、その身体不条理を改善するメカニズムを論じることではない。ただし、仮説としてそれを長期的な観察により検証するためには必要なことだろう。メカニズム理論が想定できなければ医療の発展はない。これは研究分野の一線で活躍する立場にとって重要な問題と言える。

おおよそ立場の違いが、今必要な思考プロセスの差異を生み出すことは明らかであろう。したがって、ここでは理論が必要か否かと言う二元論は、その立場における必要度に応じて重視するか、しないかと言う問題に帰着する。また本稿ではむしろ理論は必要であると主張しているのだが、なかなか理解できない部分もあるだろう。要するに現象を説明するのに、経験的に十全な理論は必要だと主張しているのである。これが2つ目の擁護ポイントだ。

現象を重視することで、一つのメカニズム理論にコミットしないというのが僕の立場である。さらに一つのメカニズム理論にコミットしないことのメリットはメカニズムの多様性を認めることである。ナトリウムを水に入れると起こる「ボンっ!」と言う現象を水素爆発というメカニズム理論にコミットしている限り、クーロン力による爆発というメカニズム理論は永久に見えてこないだろう。しかし僕の立場はこのクーロン力による爆発というメカニズム理論にもコミットしない。それが「メカニズム理論なんてどうでもいい」という立場であり、「メカニズム理論なんていらない」と主張しているわけではないのだ。ではどんな理論が必要なのか。それは現象をうまく説明しうる経験的に十全な理論である。これはメカニズムの真理を否定もせず、そして追究せず、むしろ多様性を認める立場なのである。

2015年8月22日土曜日

続・僕たちの医療〜正しい医療とは何か〜



[根拠に基づかない医療は存在するか]

EBMEvidence-Based Medicine)は、一般的に「根拠に基づく医療」と訳されます。「根拠に基づく医療」という概念が存在するのであれば、「根拠に基づかない医療」などという概念が存在するのでしょうか。僕はそのような疑問が提起されてもよいではないか、と考えています。そもそも基づくのか基づかないのかは別として「根拠」とはなんでしょうか。その定義によって、「根拠に基づく医療」と言う概念は大きく異なるかもしれません

EBMのバイブル「Evidence-based Medicine;How to practice and teach EBM 4th ed」 1)にはEBMについて以下のように書かれています。

Evidence-based medicine (EBM) requires the integration of the best research evidence with our clinical expertise and our patients unique values and circumstances
EBMには医療者の臨床に関する専門知識と、患者の個々の価値観やその環境に、最良の研究データ(科学的根拠)を統合することが求められる」

ここでいう「最良の研究データ」とはなんでしょうか。僕たちが医療現場において、臨床判断の意思決定を行う際には、多くの場合でなんらかの“科学的根拠”があるはずです[1] 医薬品の用量用法は何を根拠に決められているのか、薬剤Aと薬剤Bの併用は問題ないのか、そのような問いに対する臨床判断に対して、多くの場合で、医薬品添付文書が活用されることでしょう。あるいは薬理学や薬物動態学等の教科書かもしれません。また、医薬品の効果について、製造元の製薬会社の学術へ問い合わせることもありますでしょうし、医薬品情報担当者の情報に基づくケースもあるでしょう。自分自身がこれまでに経験・実践してきた結果を踏まえることも意思決定の根拠となることだってありますよね。[2]

そのような根拠に基づけば、これまで僕たちが行ってきた医療とEBMは何が異なるのでしょうか。それほど大きな差異はないのではないでしょうか。今ここであらためてEBMと強調するのはいかなるわけなのでしょうか。現代医学・薬学はその正当性において科学的合理性に基づいてきたはずです。多くの場合で添付文書の記載事項が非科学的だとは思えませんし、教科書の記述が科学でなければ、医学・薬学という学問はそもそも成立せず、それは宗教や迷信の類と変わらないのではないでしょうか。

[科学と宗教と迷信]

 科学と宗教、そして迷信の違いについて簡単に触れていきましょう。このテーマについては生物学者の池田清彦先生による「構造主義科学論の冒険」2)に詳しく述べられています。ここではそのエッセンスを簡単に紹介したいと思います。

科学とは端的に言えば、ある出来事と、ある出来事の関係を記述したものといえます。例えば、「水を熱すれば液体から気体となる」という記述は、水が液体であるという出来事と、水が気体であるという出来事の関係性を記述しているわけですね。この記述は将来を予測することが可能な形式です。例えば、明日、水を熱したとしても、おおよそ100℃に達すれば、その水は気体となるであろうと予測できます。このようにある出来事からある出来事の関係性を記述しているために、一つの出来事から、将来起こり得ることを想定できるのが科学的な記述形式と言えそうです。

一方宗教はどうでしょうか。宗教において将来を予測できるのはおそらく神だけではないでしょうか。宗教的な記述ではある出来事から将来を予測することが神以外にできないという構造になっています。では迷信と科学は何が異なるのでしょうか。迷信とは、合理的根拠がないにもかかわらず昔から習慣的、経験的に信じ込まれているような出来事であり、実はこれも将来を予測しうる記述形式にはなっています。

例えば、「敷居を踏むと出世しない」という迷信があるそうです。敷居は場所と場所の境界線上に辺り神聖な場所であり、その部分を踏みつけるのは作法として良くないということなんですね。この記述形式は敷居を踏むという出来事が、将来の出世についての予測を行っていることになっています。しかし科学と決定的に異なるのは、予測される将来の確度に他なりません。

僕たちが医療判断におけて、意思決定の際に用いる”根拠”は、明確に科学的といえるでしょうか。迷信とは言わないまでも、将来を予測する確度において、迷信的要素を全く含まないと断言できるでしょうか。科学、迷信、宗教という3つの区分において、実際にはその境界は曖昧であるという事は十分にありうると僕は思います。[3] 少なくとも科学と迷信の境界は明確に区分できるものではありません。将来を予測する確度がいったいどれくらいなら科学的と言えるのか、明確な定義は存在しないからです。

EBMでいう所の最良の研究でデータ(research  evidence)、すなわち「科学的根拠」とはなんでしょうか。これは臨床に関連する研究を意味しています。1) それは時に基礎医学的研究に基づくものでもありうるわけですが、特に患者中心の臨床研究を重視するというのがEBMのスタンスです。科学根拠とは端的に言えば医学、薬学に関する「客観的情報」の事を指します。ここで重要なポイントは、科学、迷信の境界があいまいであるがゆえに、この世に存在する客観的情報は、はたして科学的記述なのか、迷信的記述なのか、疑おうと思えば、いくらでも疑うことができる、ということなのです。原理的にそうなので、疑えない情報は存在する、と言われようが人間には疑うことができてしまいます。[4]

病態生理や薬理作用に基づく薬剤効果は多くの場合で仮説にすぎません。EBMで重視する関係性の根拠に患者中心の臨床研究から得られた示唆[5]を用いるのは、そのような仮説的要素(迷信的要素)を極力排除するためであるといえるかもしれません。

[とんでも医療と正当医療の間]
薬の「効果」についてあらためて考えてみましょう。これは、いうなれば、“ある薬剤が薬理学的メカニズムをへて臨床的に知覚しうる現象を生じる”いわゆる臨床効果を引き起こすという一連の因果関係を示しているんですよね。薬剤が原因となって、結果としてアウトカムをもたらす。この因果関係を適切に記述できれば、薬剤効果を規定できるわけなんですね。

まあ当たり前のことなんでしょうか、この因果関係を記述する方法はさまざまあって、そのどれが正しいかは実は明確にはわからないという事は科学的、迷信的の境界があいまいなところからもお分かりいただけるかと思います。この薬剤効果という因果関係は大きく2つの記述方法に分けられると考えています。

薬剤のメカニズムを重視して因果関係を記述する方法、それと臨床的に知覚しうる現象を重視して因果関係を記述する方法の2つです。メカニズムといっても西洋医学的なものから東洋医学的なものまでさまざまですよね。代替医療ともなるとそのメカニズム理論はややオカルトチックですが、正当医療ととんでも医療の明確な線引きも難しいのではないかなぁ、なんてとんでもないことを考えているわけです。

薬理作用や五行説的なメカニズムを重視するのはいわゆる合理主義的な考え方かもしれません。この世の中のあらゆる知覚は疑いうるわけですから、薬剤効果を感じうる知覚を重視することよりも、理論的メカニズムを重視したい、そんな立場かもしれません。特定の理論に合理性があれば、薬剤効果を規定し、一般化できるはず、臨床的に知覚しうる現象にばらつきがあるのは、個人差や偶然の作用によるもの…。化学構造式の特性により薬理作用が規定され、それが生体に作用し、生化学的反応を引き起こす。これは実在論的立場とも言えましょう。

一方、臨床的に知覚しうる現象を重視する立場は(構成的)経験主義のような考え方かもしれません。端的に言えば、メカニズムなどの理論よりも自己の経験のほうを重視し、もっぱらそれによって物事を判断しようとする態度です。薬の作用機序がどうあれ、今現に知覚しうる身体不条理が緩和されたかどうか、まあそんなことのほうが大事だ、という立場で、目に見えない薬理学、生化学的メカニズムをやや否定的にとらえる反実在論的立場かもしれません。


どちらが正しい医療なのか、というよりはこれは立場の問題なのかなぁなんて考えていまいます。ただ、医療に対する思考的立場の違いは社会的問題にもなりうるのかなとも思います。代替え医療はとんでも医療なのでしょうか。鍼治療や漢方医療とホメオパシー、プラセボ効果、がんもどき理論…。それらはみな正当医療とは呼べないのでしょうか。現時点では化学構造式が臨床症状を規定するという現象すら明確に再現できないという現実もあります。

[疫学的、統計的思考へ]
薬剤効果という因果関係の再現性は頻度で比較するより他ない、というのが現時点での僕の結論です。薬によってどうなるか、それを知ることは原理的には不可能です。これは予言という形式だから、薬を投与する時点で明確にどうなるかを知ることはできないわけなんですよね。薬を使うとどうなりうるか、を統計的に推論するよりほかありません。要は再現性の頻度の問題に帰着するというわけです。

枚挙的帰納やアブダクションだけで、薬剤効果の因果関係を論じていることでは、とんでも医療と何がどう違うのか、実は明確に線引きできないのですね。アドホックな仮定を多用したヘンテコ理論であっても現象を上手く説明できることがあるんです。エカントという補助線を導入したプトレマイオス天文学のように。だから合理的理論、メカニズムを示すだけではとんでもか、正当かを明確に線引きできないのです。

おそらく、薬剤効果についての因果関係に関する再現性の頻度を知るには臨床医学論文を読むしかありません。疫学的アプローチにより、因果関係以外の関連の仕方を極力排除し、統計的思考を導入することによって薬によってどんなアウトカムをもたらしうるのか、その程度を類推することが可能なんですね。まずは論文、やはりここから 。

 [参考文献]

1) Straus SE.et.al.Evidence-based Medicine;How to practice and teach EBM 4th ed
2)池田清彦 構造主義科学論の冒険 講談社学術文庫1998 P26-30

 [脚注]

[1] 慣習的に決められたことを前提とする意思決定の際には科学的根拠を伴わないと言えるかもしれない。しかし薬剤師の臨床判断において、たとえ慣習的と言えど、その裏には一定の科学的根拠の存在を前提としていると言えまいか。

[2] 過去の経験や観察パターンにより普遍的な法則を導く手法を帰納法と呼ぶ。例えば水は100℃で沸騰するという観察が過去に複数回経験されれば、今水を沸騰させても100℃で沸騰するだろうと結論することができる。

[3] 科学と科学でないものをどう区別するのか、これは科学哲学領域では古くからの問題で「線引き問題(demarcation problem)」と呼ばれており、明確に線引きできるただ一つの基準は現段階でも見当たらないと言われている。

[4] 合理主義哲学の祖であるルネ・デカルト(1596年~1650年)は「我思う、ゆえに我あり」すなわち疑う自分だけは疑えないと言った。


[5] もちろん、臨床研究だけではなく、生理学的な研究や非系統的な臨床観察もEBMにおける科学的根拠に含まれる。重要なのは臨床研究を重視するという事であって基礎研究を無視することではない。

2015年8月21日金曜日

平成27年度第5回薬剤師のジャーナルクラブ開催のお知らせ

本年度第5回抄読会を以下のとおり開催いたします!
ツイキャス配信日時:平成27823日(日曜日)
■午後2045分頃 仮配信
■午後2100分頃 本配信
なお配信時間は90分を予定しております。

※フェイスブックはこちらから→薬剤師のジャーナルクラブFaceBookページ
※ツイキャス配信はこちらから→http://twitcasting.tv/89089314
※ツイッター公式ハッシュタグは #JJCLIP です。
ツイキャス司会進行は、桑原@89089314先生です!
ご不明な点は薬剤師のジャーナルクラブフェイスブックページから、又はツイッターアカウント@syuichiaoまでご連絡下さい。

症例22です。今回も山本@pharmasahiro先生に作成していただきました。以下山本先生のブログより転載です。

[症例 22:厳格な血糖コントロールで合併症は予防できるのでしょうか?]

【仮想症例シナリオ】
あなたは, とある街の薬局薬剤師です.
うだるような暑さがピークを迎えたある日の昼下がりに, 突然薬局の電話がけたたましく鳴り響きました.

「うちの子が糖尿病を発症しちゃったのよ?!まさかうちの子がよ!お医者さんはインスリンをしっかり使って治療しようって言っているけれど、その治療方法で本当にうちの子は大丈夫なのかしら?先生どう思います?!」

電話の主:
日用品の買い物から処方箋調剤まで、長年当薬局を利用する常連さんの一人.
この度, 15歳になる息子さんが1型糖尿病を発症.
医師はインスリンによる厳格治療を提案. しかし電話の主である母親は気が動転しており考えがまとまらない様子.
ご家族, ご親戚には糖尿病の現病歴・既往歴はなし.

あなたは、1型糖尿病の患者さんにとって, 厳格なインスリン治療がどこまで有益がどうかを調べてみたところ, 一つの古い論文を見つけたので, すぐに読んでみることにしました.

[文献タイトルと出典]
The effect of intensive treatment of diabetes on the development and progression of long-term complications in insulin-dependent diabetes mellitus. The Diabetes Control and Complications Trial Research Group.
N Engl J Med. 1993 Sep 30;329(14):977-86.
[使用するワークシート]
ランダム化比較試験を10分で吟味するポイント:

[1型糖尿病の薬物治療、その効果はどうなっている?]
さて今回は1型糖尿病のランドマークスタディDCCTを読んでいきますよ!

1型糖尿病についてはこちらにまとめさせていだきました!

「再考!糖尿病治療 最新エビデンスから治療のあり方を考える」
南山堂 薬局 20141 Vol.65 No.1

是非ご参照ください!

[最近考えていることを少し…]
薬の効果というのは、ある薬剤が薬理学的メカニズムをへて臨床的に知覚しうる現象を生じる臨床効果を引き起こすという一連の因果関係を示しているんですよね。薬剤が原因となって、結果としてアウトカムをもたらす。この因果関係を適切に記述できれば、薬剤効果を規定できるわけなんですね。

まあ当たり前のことなんでしょうか、この因果関係を記述する方法はさまざまあって、そのどれが正しいかは実は明確にはわからないってことも最近よくわかってきました。

薬剤のメカニズムを重視して因果関係を記述するのか、それとも臨床的に知覚しうる現象を重視して因果関係を記述するのか。メカニズムといっても西洋医学的なものから東洋医学的なものまでさまざまですよね。代替医療ともなるとそのメカニズム理論はややオカルトチックですが、正当医療ととんでも医療の明確な線引きも難しいのではないかなぁ、なんてとんでもないことを考えているわけです。

薬理作用や五行説的なメカニズムを重視するのはいわゆる合理主義的な考え方かもしれません。この世の中のあらゆる知覚は疑いうるわけですから、薬剤効果を感じうる近くを重視することよりも、理論的メカニズムを重視したい、そんな立場かもしれません。特定の理論に合理性があれば、薬剤効果を規定し、一般化できるはず、臨床的に知覚しうる現象にばらつきがあるのは、個人差や偶然の作用によるもの…。化学構造式の特性により薬理作用が規定され、それが生体に作用し、生化学的反応を引き起こす。これは実在論的立場とも言えましょう。

一方、臨床的に知覚しうる現象を重視する立場は経験主義的な考え方かもしれません。端的に言えば、メカニズムなどの理論よりも自己の経験のほうを重視し、もっぱらそれによって物事を判断しようとする態度です。薬の作用機序がどうあれ、今現に知覚しうる身体不条理が緩和されたかどうか、まあそんなことのほうが大事だ、という立場で、目に見えない薬理学、生化学的メカニズムをやや否定的にとらえる反実在論的立場かもしれません。

どちらが正しい医療なのか、というよりはこれは立場の問題なのかなぁなんて考えていまいます。ただ、医療に対する思考的立場の違いは社会的問題にもなりうるのかなとも思います。代替え医療はとんでも医療なのでしょうか。鍼治療や漢方医療とホメオパシー、プラセボ効果、がんもどき理論…。それらはみな正当医療とは呼べないのでしょうか。現時点では化学構造式が臨床症状を規定するという現象すら明確に再現できないという現実もあります。

薬剤効果という因果関係の再現性は頻度で比較するより他ない、というのが現時点での僕の結論です。薬によってどうなるか、それを知ることは原理的には不可能です。これは予言という形式だから、薬を投与する時点で明確にどうなるかを知ることはできないわけなんですよね。薬を使うとどうなりうるか、を統計的に推論するよりほかありません。要は再現性の頻度の問題に帰着するというわけです。枚挙的帰納やアブダクションだけで、薬剤効果の因果関係を論じていることでは、とんでも医療と何がどう違うのか、実は明確に線引きできないのですね。


おそらく、薬剤効果についての因果関係に関する再現性の頻度を知るには臨床医学論文を読むしかありません。疫学的アプローチにより、因果関係以外の関連の仕方を極力排除し、統計的思考を導入することによって薬によってどんなアウトカムをもたらしうるのか、その程度を類推することが可能なんですね。まずは論文、やはりここから始めましょう!