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2015年8月22日土曜日

続・僕たちの医療〜正しい医療とは何か〜



[根拠に基づかない医療は存在するか]

EBMEvidence-Based Medicine)は、一般的に「根拠に基づく医療」と訳されます。「根拠に基づく医療」という概念が存在するのであれば、「根拠に基づかない医療」などという概念が存在するのでしょうか。僕はそのような疑問が提起されてもよいではないか、と考えています。そもそも基づくのか基づかないのかは別として「根拠」とはなんでしょうか。その定義によって、「根拠に基づく医療」と言う概念は大きく異なるかもしれません

EBMのバイブル「Evidence-based Medicine;How to practice and teach EBM 4th ed」 1)にはEBMについて以下のように書かれています。

Evidence-based medicine (EBM) requires the integration of the best research evidence with our clinical expertise and our patients unique values and circumstances
EBMには医療者の臨床に関する専門知識と、患者の個々の価値観やその環境に、最良の研究データ(科学的根拠)を統合することが求められる」

ここでいう「最良の研究データ」とはなんでしょうか。僕たちが医療現場において、臨床判断の意思決定を行う際には、多くの場合でなんらかの“科学的根拠”があるはずです[1] 医薬品の用量用法は何を根拠に決められているのか、薬剤Aと薬剤Bの併用は問題ないのか、そのような問いに対する臨床判断に対して、多くの場合で、医薬品添付文書が活用されることでしょう。あるいは薬理学や薬物動態学等の教科書かもしれません。また、医薬品の効果について、製造元の製薬会社の学術へ問い合わせることもありますでしょうし、医薬品情報担当者の情報に基づくケースもあるでしょう。自分自身がこれまでに経験・実践してきた結果を踏まえることも意思決定の根拠となることだってありますよね。[2]

そのような根拠に基づけば、これまで僕たちが行ってきた医療とEBMは何が異なるのでしょうか。それほど大きな差異はないのではないでしょうか。今ここであらためてEBMと強調するのはいかなるわけなのでしょうか。現代医学・薬学はその正当性において科学的合理性に基づいてきたはずです。多くの場合で添付文書の記載事項が非科学的だとは思えませんし、教科書の記述が科学でなければ、医学・薬学という学問はそもそも成立せず、それは宗教や迷信の類と変わらないのではないでしょうか。

[科学と宗教と迷信]

 科学と宗教、そして迷信の違いについて簡単に触れていきましょう。このテーマについては生物学者の池田清彦先生による「構造主義科学論の冒険」2)に詳しく述べられています。ここではそのエッセンスを簡単に紹介したいと思います。

科学とは端的に言えば、ある出来事と、ある出来事の関係を記述したものといえます。例えば、「水を熱すれば液体から気体となる」という記述は、水が液体であるという出来事と、水が気体であるという出来事の関係性を記述しているわけですね。この記述は将来を予測することが可能な形式です。例えば、明日、水を熱したとしても、おおよそ100℃に達すれば、その水は気体となるであろうと予測できます。このようにある出来事からある出来事の関係性を記述しているために、一つの出来事から、将来起こり得ることを想定できるのが科学的な記述形式と言えそうです。

一方宗教はどうでしょうか。宗教において将来を予測できるのはおそらく神だけではないでしょうか。宗教的な記述ではある出来事から将来を予測することが神以外にできないという構造になっています。では迷信と科学は何が異なるのでしょうか。迷信とは、合理的根拠がないにもかかわらず昔から習慣的、経験的に信じ込まれているような出来事であり、実はこれも将来を予測しうる記述形式にはなっています。

例えば、「敷居を踏むと出世しない」という迷信があるそうです。敷居は場所と場所の境界線上に辺り神聖な場所であり、その部分を踏みつけるのは作法として良くないということなんですね。この記述形式は敷居を踏むという出来事が、将来の出世についての予測を行っていることになっています。しかし科学と決定的に異なるのは、予測される将来の確度に他なりません。

僕たちが医療判断におけて、意思決定の際に用いる”根拠”は、明確に科学的といえるでしょうか。迷信とは言わないまでも、将来を予測する確度において、迷信的要素を全く含まないと断言できるでしょうか。科学、迷信、宗教という3つの区分において、実際にはその境界は曖昧であるという事は十分にありうると僕は思います。[3] 少なくとも科学と迷信の境界は明確に区分できるものではありません。将来を予測する確度がいったいどれくらいなら科学的と言えるのか、明確な定義は存在しないからです。

EBMでいう所の最良の研究でデータ(research  evidence)、すなわち「科学的根拠」とはなんでしょうか。これは臨床に関連する研究を意味しています。1) それは時に基礎医学的研究に基づくものでもありうるわけですが、特に患者中心の臨床研究を重視するというのがEBMのスタンスです。科学根拠とは端的に言えば医学、薬学に関する「客観的情報」の事を指します。ここで重要なポイントは、科学、迷信の境界があいまいであるがゆえに、この世に存在する客観的情報は、はたして科学的記述なのか、迷信的記述なのか、疑おうと思えば、いくらでも疑うことができる、ということなのです。原理的にそうなので、疑えない情報は存在する、と言われようが人間には疑うことができてしまいます。[4]

病態生理や薬理作用に基づく薬剤効果は多くの場合で仮説にすぎません。EBMで重視する関係性の根拠に患者中心の臨床研究から得られた示唆[5]を用いるのは、そのような仮説的要素(迷信的要素)を極力排除するためであるといえるかもしれません。

[とんでも医療と正当医療の間]
薬の「効果」についてあらためて考えてみましょう。これは、いうなれば、“ある薬剤が薬理学的メカニズムをへて臨床的に知覚しうる現象を生じる”いわゆる臨床効果を引き起こすという一連の因果関係を示しているんですよね。薬剤が原因となって、結果としてアウトカムをもたらす。この因果関係を適切に記述できれば、薬剤効果を規定できるわけなんですね。

まあ当たり前のことなんでしょうか、この因果関係を記述する方法はさまざまあって、そのどれが正しいかは実は明確にはわからないという事は科学的、迷信的の境界があいまいなところからもお分かりいただけるかと思います。この薬剤効果という因果関係は大きく2つの記述方法に分けられると考えています。

薬剤のメカニズムを重視して因果関係を記述する方法、それと臨床的に知覚しうる現象を重視して因果関係を記述する方法の2つです。メカニズムといっても西洋医学的なものから東洋医学的なものまでさまざまですよね。代替医療ともなるとそのメカニズム理論はややオカルトチックですが、正当医療ととんでも医療の明確な線引きも難しいのではないかなぁ、なんてとんでもないことを考えているわけです。

薬理作用や五行説的なメカニズムを重視するのはいわゆる合理主義的な考え方かもしれません。この世の中のあらゆる知覚は疑いうるわけですから、薬剤効果を感じうる知覚を重視することよりも、理論的メカニズムを重視したい、そんな立場かもしれません。特定の理論に合理性があれば、薬剤効果を規定し、一般化できるはず、臨床的に知覚しうる現象にばらつきがあるのは、個人差や偶然の作用によるもの…。化学構造式の特性により薬理作用が規定され、それが生体に作用し、生化学的反応を引き起こす。これは実在論的立場とも言えましょう。

一方、臨床的に知覚しうる現象を重視する立場は(構成的)経験主義のような考え方かもしれません。端的に言えば、メカニズムなどの理論よりも自己の経験のほうを重視し、もっぱらそれによって物事を判断しようとする態度です。薬の作用機序がどうあれ、今現に知覚しうる身体不条理が緩和されたかどうか、まあそんなことのほうが大事だ、という立場で、目に見えない薬理学、生化学的メカニズムをやや否定的にとらえる反実在論的立場かもしれません。


どちらが正しい医療なのか、というよりはこれは立場の問題なのかなぁなんて考えていまいます。ただ、医療に対する思考的立場の違いは社会的問題にもなりうるのかなとも思います。代替え医療はとんでも医療なのでしょうか。鍼治療や漢方医療とホメオパシー、プラセボ効果、がんもどき理論…。それらはみな正当医療とは呼べないのでしょうか。現時点では化学構造式が臨床症状を規定するという現象すら明確に再現できないという現実もあります。

[疫学的、統計的思考へ]
薬剤効果という因果関係の再現性は頻度で比較するより他ない、というのが現時点での僕の結論です。薬によってどうなるか、それを知ることは原理的には不可能です。これは予言という形式だから、薬を投与する時点で明確にどうなるかを知ることはできないわけなんですよね。薬を使うとどうなりうるか、を統計的に推論するよりほかありません。要は再現性の頻度の問題に帰着するというわけです。

枚挙的帰納やアブダクションだけで、薬剤効果の因果関係を論じていることでは、とんでも医療と何がどう違うのか、実は明確に線引きできないのですね。アドホックな仮定を多用したヘンテコ理論であっても現象を上手く説明できることがあるんです。エカントという補助線を導入したプトレマイオス天文学のように。だから合理的理論、メカニズムを示すだけではとんでもか、正当かを明確に線引きできないのです。

おそらく、薬剤効果についての因果関係に関する再現性の頻度を知るには臨床医学論文を読むしかありません。疫学的アプローチにより、因果関係以外の関連の仕方を極力排除し、統計的思考を導入することによって薬によってどんなアウトカムをもたらしうるのか、その程度を類推することが可能なんですね。まずは論文、やはりここから 。

 [参考文献]

1) Straus SE.et.al.Evidence-based Medicine;How to practice and teach EBM 4th ed
2)池田清彦 構造主義科学論の冒険 講談社学術文庫1998 P26-30

 [脚注]

[1] 慣習的に決められたことを前提とする意思決定の際には科学的根拠を伴わないと言えるかもしれない。しかし薬剤師の臨床判断において、たとえ慣習的と言えど、その裏には一定の科学的根拠の存在を前提としていると言えまいか。

[2] 過去の経験や観察パターンにより普遍的な法則を導く手法を帰納法と呼ぶ。例えば水は100℃で沸騰するという観察が過去に複数回経験されれば、今水を沸騰させても100℃で沸騰するだろうと結論することができる。

[3] 科学と科学でないものをどう区別するのか、これは科学哲学領域では古くからの問題で「線引き問題(demarcation problem)」と呼ばれており、明確に線引きできるただ一つの基準は現段階でも見当たらないと言われている。

[4] 合理主義哲学の祖であるルネ・デカルト(1596年~1650年)は「我思う、ゆえに我あり」すなわち疑う自分だけは疑えないと言った。


[5] もちろん、臨床研究だけではなく、生理学的な研究や非系統的な臨床観察もEBMにおける科学的根拠に含まれる。重要なのは臨床研究を重視するという事であって基礎研究を無視することではない。

2014年10月4日土曜日

言語学と医療

言語学と言っても、様々ですが、以下はソシュール言語学からの示唆ではあります。
フェルディナン・ド・ソシュール(18571913)。僕は彼についてその多くを知りません。スイスのジュネーブ大学で一般言語学という講義を行っていたこと、物の名称に関する興味深い示唆を見出したこと。ただそのようなことを、思想書の中からかいつまんで得た知識のみを有しているにすぎません。近いうちに読みたいと思っていますが、丸山圭三郎さんの「ソシュールの思想」すら読んでいません。だからシニフィエがどうとかシニフィアンがどうとか、共時態と通時態とか、そういったことを、えらそうに語る資格もありませんし、その本質を理解しているともいえません。

ただ僕がソシュールの思想に大変影響されたのが、モノの名称に関する示唆です。例えば、日本語で兄と弟という2つの言葉があります。要するに兄弟には年上と年下という2つの概念が存在しますよね。日本人なら当たり前すぎる言葉ではありますが、ご存じ英語ではbrotherであり、原則的に兄と弟を区別しません。Sisterも同様に、姉と妹を区別しません。もちろん英語話者では全て“双子”で生まれてくるわけありませんし、当然ながら2人の子供がいたら、双子でない限りにおいて、どちらかが年上であり、一方は年下であるはずです。僕らは英語を習う時、あまりそのことを意識させられないまま学んでいます。だがしかし、言語の種類によって、その言語話者が有する認識に応じて、目の前の事物の分類の仕方が変わるというのはものすごいことだと思うのです。

例えばこの世界のあらゆる事物を砂漠のようなただの砂地に例えれば、コトバと言うのはその砂をすくう網のようなものであって、網の目の大きさや形によって砂に描かれる模様が異なるように、おおよそコトバによって切り取られる世界の見方が変わるのです。

病気と言われるような現象も診断基準といようなというコトバによって単なる身体不条理という現象から疾患を切り取るように、本来“あれ”と“これ”の病名の間には境界がない連続帯なのだと思います。咽頭炎と喉頭炎と副鼻腔炎のように言葉をあてがうことで、上気道の炎症という現象をカテゴライズし、概念化し、認識し、治療を考えます。

どうも医療においては身体不条理という現象を言語化し、さらに医療者は医療言語へ変換し、治療を組み立てるという流れの中で、言語学的視点がとてもフィットするように思うのです。

[コトバの差異性]

他者と比較できないような感情表現。こういった感情表現はまた難しいように思えます。物事の認識は他者との比較により物の価値が産み出されるのです。すなわち、”大きい”という価値観は”小さい”が存在しているからこそ概念化されるわけです。言葉は差異の体系であるがゆえに、対立概念のない現象を具体的に概念化し名指すことは困難であることが往々にしてあります。たとえば僕らは猫そのものについて学ぶことはなく、僕らは猫とは、ネズミじゃないもの、犬じゃないもの、虎じゃないもの、ライオンじゃないもの。そういうふうに学んできました。

また、とある治療の価値を見出すには、他の治療との比較が必要ですが、現在、巷にあふれ、容易にアクセスできる医療情報においては、果たして比較妥当性の高いもの同士をしっかり検討したものがどれほどあるのだろうかと思います。

[コトバの恣意性]

 コトバはその存在と同時に世界の見え方を変えていきます。「やまねこ」という言葉が生まれると同時に、「ねこ」たちは「ねこ」と「やまねこ」に分節されます。言葉はそれが話されている社会に共通な、経験の概念化、あるいは構造化であり、例えば外国語を学ぶことはすでに知っている概念の新しい名前を知ることではなく、今までとは全く異なったカテゴリー化の新しい視点を獲得することに他なりません。事物をそれぞれの言語社会に属する人々が、その生活体験を通じてどのように概念化してきたのか、そういったことが垣間見えます。

 言語次第で現実の連続帯がどのように不連続化されていくか、その区切り方にみられる異なり方の問題は、例えば日本語で分節できない感情表現、すなわち「言葉では表せない気持ち」のような。これは個人の主観的な問題ではなく、その人のリアルな現象のはずなのですが、言語化できないためにリアルさを共有できません。医療においてはなんだかわからない症状と変換されてしまう恐れを孕んでいます。

[曖昧なまま受け入れる事の困難さ]

目の前の連続帯に切れ目をいれカテゴライズする、二項対立に価値を見いだす、言葉はこの二つの性質をもちます。すなわち言葉の恣意性と差異性です。本来、言葉の恣意性と差異性は僕らの言語表現を縛ります。言葉は価値を相対化し、物事をカテゴライズすることを可能にしましたが、言葉を使えることで、むしろ人は何事も感情を伝え、物事を区別し、概念を共有できると錯覚します。言葉を使う限りにおいて、曖昧さを受容することは困難なのだといえます。


今目の前の身体不条理に病名をつけてもらわないと不安なように、あらゆる身体不条理は病名によりカテゴライズされ、治療が最適化できると考えがちです。でも実際のところ、感染性胃腸炎なら、そこには吐き気と下痢症状という現象があるだけです。その原因がノロウイルスだろうとロタウイルスだろうと、そんなことはあまり重要ではないのですが、ノロウイルスであると診断されることの方をヒトは求めます。現象に切れ目を入れることで医学は発展してきました。ただそれは切れ目を入れる必要があるかどうかとは、また別の問題を孕んでいる気がしてなりません。

2014年2月7日金曜日

「病名」とは時間を生み出す形式である

「コトバは時間を生み出す形式である」ということをずっと考えてきた気がします。ようやくそのアウトラインが見えてきた気もします。現象そのものは時間を内包する。すなわち不変の現象は存在しません。変わっていくことが今わからないとしても、変わったことは分かるものです。例えば今の僕自身、5分後に何か変わるとすれば、顔の形とか、身長や、体重はそれほど変わるはずもありません。しかし20年前と比べれば、それは大きく変わっています。

コトバは時間を内包しないけれども同一性を孕んでいます。そうでなければ僕らは、あるモノに対して同じ価値観でコミュニケーションが取れません。「あのコップとって」といわれて、コップと言うものの同一性を認識しているからこそ、コミュニケーションが成り立つわけです。まあしかし、あのコップと言われてもどのコップだよ、と言うかんじで、時に意思疎通が取れないこともしばしばです。厳密な同一性を担保することは難しい。

時間を内包する現象をコトバで記述することは可能なのでしょうか。時間とともに変化する僕は、しかし僕であり続ける根拠はどこにあるのか。「僕の名前」は10年前も、そして10年後もおそらくは変わらないけれど、「僕」は変わっていく。もっとメタボになっているかもしれないし、この世にいないかもしれない。「名」とは時間を生み出す形式であるという事に気づかされる。

「名」とはコトバです。人の「名」以外にも様々な現象に「名」がある。病気に対してもそうで、それはしばしば「病名」といわれます。「病名」は様々な現象をコードする不変の何かであり。診断基準に支えられ、治療方針が標準化されていることも多い。僕ら医療者は、こういった病気という実態を現象としてとらえ、コトバにコードしていく。

現象そのものを記述することはとても難しい。科学は現象を記述できるかのように思いなす壮大な錯覚体系であるといいます。錯覚体系を共有することで現象はコトバによって了解可能となる。時間を含む現象を、人は時間を含まない言葉によって引き出すことで共通了解を可能にしたのです。

高血圧とはなにか、「収縮期圧140mmHg以上、もしくは拡張期圧90mmHg以上」というコトバに支えられた、不変の同一性を有するものです。僕ら医療者は、多くの場合でこの「高血圧症」という不変の同一性に支えられて、降圧薬や食事療法などと言った医療介入を取り扱います。その目的は何でしょうか。血圧を下げるためでしょうか。もちろん、脳卒中を減らし、健康寿命を延ばすこと、そして患者さんが幸せになること、それが降圧治療の真の目的であることの方が多いでしょう。血圧を下げることはあくまで手段であって目的ではありません。血圧そのものは簡易的な指標にはなりますが、最終的には健康寿命が延びたかどうか、幸せになれたかどうか、みたいなところが肝要ではあります。

「高血圧症」というコトバは時間を含まない不変の同一性に支えられたコトバではありますが、実際の患者さんに起こっている「高血圧」はコトバではなくコト、すなわち現象です。患者さんは今を生きる、すなわち時間を含むものです。したがって患者さん個々の「高血圧」と言う現象は時間を含む変なるものです。まあよく考えれば当たり前なのですが、ここまで来るのに時間がかかりました。

患者さんの「高血圧」少し時間を追ってみましょう。1年後の「高血圧」はどうなっているのでしょうか。コトバとしての「高血圧」そのものは1年後も「収縮期圧140mmHg以上、もしくは拡張期圧90mmHg以上」という不変のものです。しかしながら患者さんの現象としての高血圧は様々に変化する変なるものです。血圧がより上がって、めまいや頭痛の頻度が増えているかもしれません。あるいは「高血圧」から脳卒中をおこし、寝たきりとなってしまっている、あるいは亡くなってしまったかもしれません。脳卒中以外の原因で亡くなってしまったかもしれないですし、あるいはそもそも「高血圧」というものと無関係に亡くなってしまったかもしれません。「高血圧」は時間がたてば変わらないこともあるし、変わることもある。

コトバとしての「高血圧」は患者が死んでしまうとか、高血圧のコントロールが悪化して、めまいや頭痛がでるとか、脳卒中が起こるとか、そういった事は定義されていません。あくまでも血圧が高いという不変の同一性を定義しているにすぎません。しかし目の前の患者さんは現実を生きていますし、時間と言うものが存在していることはどうしようもない。時間を前に不変なものなど存在しません。例えば目の前にある本。5分前と後で、不変じゃないか!と思われるかもしれませんが、その5分の間で、紙を構成している原子核の周りをまわっている電子の位置がずれているかもしれませんし、そういったことを考えれば、時間の流れと言うものは常に変化を伴うものです。

「高血圧症」という同一性に支えられ、僕らは降圧治療を考えますが、同時に患者の「高血圧症」は時間を含む変なるものです。ある薬剤介入で脳卒中が減ったという結果があったとします。実際のところ、時間の流れを考慮すれば、脳卒中が減ったというよりは、脳卒中が先送りされたという解釈が妥当です。そして死亡よりも先へ先延ばしされれば、見かけ上は脳卒中が減ったことになるでしょう。「高血圧症」の時間、進行するとどうなるのか、そしてそれに対する医学的介入について、患者さんの時間に組み入れて考えたい。患者さんの時間を軸に、それを「固有の時間」と言うのだそうですが、時間を生み出す同一性こそ「高血圧症」そのものであると言えます。

実臨床で、不変の同一性を有する疾患定義は便利なものですが、同時に患者さん固有の時間を見失うことも多いと感じます。EBMの実践のなかでも患者さんそれぞれの固有の時間を軸にした思考を身につけたい。確かに活用すべき臨床エビデンスそのものは時間を生み出さない形式かもしれない。しかしこのエビデンスを動かすのは、時間を孕む個々の人、僕ら医療者です。とあるランダム化比較試験(N Engl J Med. 2008 May 1;358(18):1887-98)が示す、降圧薬でプラセボに比べて、相対的に脳卒中が30%減る、という事やそのNNTの値よりもむしろ、どれだけイベントが先送りされるのかを考える方がよりリアル。カプランマイヤーが示す、その時間のズレにどのような意義があるのか。それは患者さん固有の時間を抜きには考えられないことであると同時に、追跡期間と言う限定的な枠の中であるものの、エビデンスから時間を引き出している瞬間でもあります。


「高血圧」というコトバが時間を生み出す形式となる。そして生み出された患者さん固有の時間を軸に、エビデンスの結果から時間を抜出し考えていきたい。エビデンスの批判的吟味とその結果の適用という、一連の思考過程の中で、断片的なものだけでなく、時間とともに考えるEBMの実践。ナラティブよりもむしろ患者固有の時間を大事にしたい。ナラティブは言い換えれば、欲望にすぎないかもしれません。時間という概念を包括せざるを得ない。“患者のための医療という医療から、自由になるために。時間と共に考えることこそ、EBMの真価が発揮される。患者固有の時間を軸にする事でエビデンスの取り扱い方がもう少し自由になる。そんな気がします。