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2014年10月4日土曜日

言語学と医療

言語学と言っても、様々ですが、以下はソシュール言語学からの示唆ではあります。
フェルディナン・ド・ソシュール(18571913)。僕は彼についてその多くを知りません。スイスのジュネーブ大学で一般言語学という講義を行っていたこと、物の名称に関する興味深い示唆を見出したこと。ただそのようなことを、思想書の中からかいつまんで得た知識のみを有しているにすぎません。近いうちに読みたいと思っていますが、丸山圭三郎さんの「ソシュールの思想」すら読んでいません。だからシニフィエがどうとかシニフィアンがどうとか、共時態と通時態とか、そういったことを、えらそうに語る資格もありませんし、その本質を理解しているともいえません。

ただ僕がソシュールの思想に大変影響されたのが、モノの名称に関する示唆です。例えば、日本語で兄と弟という2つの言葉があります。要するに兄弟には年上と年下という2つの概念が存在しますよね。日本人なら当たり前すぎる言葉ではありますが、ご存じ英語ではbrotherであり、原則的に兄と弟を区別しません。Sisterも同様に、姉と妹を区別しません。もちろん英語話者では全て“双子”で生まれてくるわけありませんし、当然ながら2人の子供がいたら、双子でない限りにおいて、どちらかが年上であり、一方は年下であるはずです。僕らは英語を習う時、あまりそのことを意識させられないまま学んでいます。だがしかし、言語の種類によって、その言語話者が有する認識に応じて、目の前の事物の分類の仕方が変わるというのはものすごいことだと思うのです。

例えばこの世界のあらゆる事物を砂漠のようなただの砂地に例えれば、コトバと言うのはその砂をすくう網のようなものであって、網の目の大きさや形によって砂に描かれる模様が異なるように、おおよそコトバによって切り取られる世界の見方が変わるのです。

病気と言われるような現象も診断基準といようなというコトバによって単なる身体不条理という現象から疾患を切り取るように、本来“あれ”と“これ”の病名の間には境界がない連続帯なのだと思います。咽頭炎と喉頭炎と副鼻腔炎のように言葉をあてがうことで、上気道の炎症という現象をカテゴライズし、概念化し、認識し、治療を考えます。

どうも医療においては身体不条理という現象を言語化し、さらに医療者は医療言語へ変換し、治療を組み立てるという流れの中で、言語学的視点がとてもフィットするように思うのです。

[コトバの差異性]

他者と比較できないような感情表現。こういった感情表現はまた難しいように思えます。物事の認識は他者との比較により物の価値が産み出されるのです。すなわち、”大きい”という価値観は”小さい”が存在しているからこそ概念化されるわけです。言葉は差異の体系であるがゆえに、対立概念のない現象を具体的に概念化し名指すことは困難であることが往々にしてあります。たとえば僕らは猫そのものについて学ぶことはなく、僕らは猫とは、ネズミじゃないもの、犬じゃないもの、虎じゃないもの、ライオンじゃないもの。そういうふうに学んできました。

また、とある治療の価値を見出すには、他の治療との比較が必要ですが、現在、巷にあふれ、容易にアクセスできる医療情報においては、果たして比較妥当性の高いもの同士をしっかり検討したものがどれほどあるのだろうかと思います。

[コトバの恣意性]

 コトバはその存在と同時に世界の見え方を変えていきます。「やまねこ」という言葉が生まれると同時に、「ねこ」たちは「ねこ」と「やまねこ」に分節されます。言葉はそれが話されている社会に共通な、経験の概念化、あるいは構造化であり、例えば外国語を学ぶことはすでに知っている概念の新しい名前を知ることではなく、今までとは全く異なったカテゴリー化の新しい視点を獲得することに他なりません。事物をそれぞれの言語社会に属する人々が、その生活体験を通じてどのように概念化してきたのか、そういったことが垣間見えます。

 言語次第で現実の連続帯がどのように不連続化されていくか、その区切り方にみられる異なり方の問題は、例えば日本語で分節できない感情表現、すなわち「言葉では表せない気持ち」のような。これは個人の主観的な問題ではなく、その人のリアルな現象のはずなのですが、言語化できないためにリアルさを共有できません。医療においてはなんだかわからない症状と変換されてしまう恐れを孕んでいます。

[曖昧なまま受け入れる事の困難さ]

目の前の連続帯に切れ目をいれカテゴライズする、二項対立に価値を見いだす、言葉はこの二つの性質をもちます。すなわち言葉の恣意性と差異性です。本来、言葉の恣意性と差異性は僕らの言語表現を縛ります。言葉は価値を相対化し、物事をカテゴライズすることを可能にしましたが、言葉を使えることで、むしろ人は何事も感情を伝え、物事を区別し、概念を共有できると錯覚します。言葉を使う限りにおいて、曖昧さを受容することは困難なのだといえます。


今目の前の身体不条理に病名をつけてもらわないと不安なように、あらゆる身体不条理は病名によりカテゴライズされ、治療が最適化できると考えがちです。でも実際のところ、感染性胃腸炎なら、そこには吐き気と下痢症状という現象があるだけです。その原因がノロウイルスだろうとロタウイルスだろうと、そんなことはあまり重要ではないのですが、ノロウイルスであると診断されることの方をヒトは求めます。現象に切れ目を入れることで医学は発展してきました。ただそれは切れ目を入れる必要があるかどうかとは、また別の問題を孕んでいる気がしてなりません。

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