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2014年8月7日木曜日

構造主義薬学論-薬剤効果-

序論はこちらを:構造主義薬学論への挑戦
これは個人的に考察している薬学概論にすぎません。いまだ未熟な理論のため矛盾点も多いかと思います。今後さらなる、模索を続けていくうえで修正を加えていきますが、現時点での考察メモ代わりにまとめていきます。

[現象の定量化]

客観的薬剤効果は理論的仮説体系の中から現実の生活世界を垣間見る構造である

自然現象の数学化あるいは定量化という自然科学が打ち立てた法則や関係式はヒトの世界認識を大きく変えました。フッサールは「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」の中でおおよそ次のようなことを述べています。「一度、関係式を手に入れれば、それによって、具体的、現実的な生活の直観的な世界において、経験的確実さをもって期待されうるものを、実践的に望ましい仕方であらかじめ予見できるようになる」
現象の定量化はヒトの日常経験と言う主観的な世界観を、いわゆる「関係式」により具体化することで、確実で絶対的な世界だ、という感覚をヒトに与えることに成功しました。関係式を与える自然科学は、法則が表現する定式化された世界こそ客観的なものの見方であり、日常の経験そのものはそれに比べてしまえば相対的であいまいなものだという感覚をヒトに植え付けてきたように思います。生活の便宜として現れた自然科学は、やがてある因果関係の体系化を推し進めていくことが目的となり、現実の生活世界は、この目的のために検証されるべき手段に過ぎないものとみなされていきます。
分子生物学、薬理学、病態生理学、疫学や統計学といった学問は学術的知見から得られた因果的な法則や構造を仮説として客観化してきましたが、このような学的に打ち立てられた仮説認識が、現実の生活世界における現象に必ずしも直結しないという事を何も疑わず、因果系列を客観化された仮説はいまだ多くのケースで絶対的な認識として存在するように思います。
極端に言えば自然科学は目の前の現象を捉えるため、その認識に対する仮説的補助線(≒フィクション)であるという事はいつしか認識から消えかかっています。

[真のアウトカム・代用のアウトカムと薬剤効果の二重性]
糖尿病はインスリンの働きが悪くなり、血糖値が下がりにくくなる。そうすると高血糖を招き、持続的な高血糖が細小血管合併症、ひいては大血管合併症を引き起こす。だから血糖値を下げなくてはいけない。という治療概念は病態生理学的な考えをもとにしたものです。またインスリンをたくさん出せば、血糖値が下がる、インスリンを出すためにはどういった薬剤を使用すればよいのか薬理学的に探索された化学物質が医薬品となり、実際に糖尿病治療に用いられます。

実際にトルブタミドを使って血糖値は下がるかもしれません。しかしながら血糖値は下がっても死亡は減らないどころか逆に増えてしまう可能性が示されています。
Diabetes. 1970;19:Suppl:789-830.PMID:4926376

そして厳格な血糖コントロールしても大血管合併症を予防できるかどうか明確なことは分かっていないのです。
N Engl J Med. 2008 Jun 12;358(24):2545-59 PMID:18539917)
BMJ. 2011 Nov 24;343:d6898. PMID:22115901

厳格血糖コントロールで低血糖リスクは増加しますし
Ann Intern Med. 2009 Sep 15;151(6):394-403. PMID:19620144

それにより心臓病が増えてしまう可能性もあります。
BMJ 2013;347:f4533 PMID:23900314

当然ながら低血糖自体に死亡リスクも示唆されています
Diabetes Care. 2013 Apr;36(4):894-900 PMID:23223349

糖尿病の病態生理学的知見からいえば、血糖値を下げる薬剤を用いて、平均的なヒトの血糖値を目標に血糖値をコントロールしていくというのは客観的に全く正しいやり方のように思えます。事実、糖尿病治療薬で血糖値が下がりますし、そうすると糖尿病という病態は一見して、正常を保っているように思えます。

しかしながら大事なことは、一般的に病気と言われている現象は時間とともに変化するという事です。現在の高血糖が、現時点で是正されていることに、はたしてどれだけの意味があるのかという問いは、時間と言う概念を考慮しない限り見えてきません。糖尿病と言われている人たちは、そうでない人たちに比べて、細小血管合併症や、大血管合併症を発症しやすかったりするわけです。だから糖尿病とは本来、“血糖値が高くて、将来的な合併症リスクが高い”病とでもいった方がふさわしいのかと思います。そうでもしないと、病態生理学的にうちたてられた仮説に、ヒトは“真のアウトカム”を見失います。

真のアウトカムという概念があまり重要視されないのは、学問が理論的仮説にもかかわらず、あまりにも完全な体型を打ち立ててしまったからなのかもしれません。この記述体系のなかに真理があると信じて疑わないという構造が、現実の生活世界と、学問的な理論的仮説の認識とを切り離していきます。理論的仮説は、本来、生活世界の便宜のために生まれてきたはずなので、そこには実生活における心理を含んでいません。ところが理論的仮説を整備することそれ自体を目的化してしまい、いつしか人はその仮説体系の中に現実の生活世界を垣間見るようになります。学的な仮説体系と現実の生活世界の隔たりは、代用のアウトカム、真のアウトカムという認識概念が臨機応変に分離できない構造と似ています。

学的に打ち立てられた理論的仮説から生活世界をみつめるというのは、薬物治療を考えるうえでは、本来逆なのかもしれません。糖尿病では血糖値を下げることで治療効果が得られるという認識は、病態生理学的にうちたてられた仮説体系から現実の生活世界を見つめています。また真のアウトカムを検討したエビデンスが示す臨床データでさえも学的(疫学や統計学)にうちたてられた仮説なのかもしれません。学的にうちたてられた仮説が、将来を高率で予測できるという認識そのものが医療者側における薬剤効果を規定している要素だ、という事が分かります。

構造主義薬学論における薬の効果の二重性とはすなわち、学的な仮説体系から予測された客観的薬剤効果(いわゆる効能)と現実の生活世界の中で実感できる主観的薬剤効果(いわゆる効果)のことです。真のアウトカム(死亡や合併症リスクなど人の一生における重大な転機に影響を及ぼす指標)、代用のアウトカム(血圧や血糖値など将来リスクを予測する代用の指標)という概念はいずれの薬剤効果にも含まれます。

[構造主義薬学論における薬剤効果の基本概念]
客観的薬剤効果…学術的な仮説体系に基づく理論的な効能
真のアウトカム(客観的データとして一番重要な要素)
代用のアウトカム(将来リスクの代用指標としての客観的データ)
主観的薬剤効果…現実の生活世界における薬剤効果
 真のアウトカム(主観的に実感するのが困難な要素)
 代用のアウトカム(主観的に容易に実感できる要素)

[主観的な薬剤効果]

医療を受ける人は真のアウトカムとしての効果を「感じる」ことは困難であり、薬剤効果の判断基準は代用のアウトカムであることが多い

この薬は効きますかという問いの中には驚くほど多くの示唆があります。いったいどういう効果を期待しているのでしょうか。血圧の薬であれば血圧が下がることをその薬の効果と言うのでしょうか。それとも寿命が延びることをその薬の効果と言うのでしょうか。血圧が下がると言ってもどの程度下がれば効果として認められるのでしょうか。寿命が延びたとして、いったい何日延びれば効果と言えるのでしょうか。

日本語話者は空に浮かぶ虹を見て藍色が認識できるようです。けれども英語話者には虹を見ただけでは意識できないのかもしれません。光のスペクトルは無限のはずなのに、虹を見て僕ら日本語話者は7色であると言い、英語話者は6色であるといいますが、見えている光に違いはありません。例えば黄緑だって虹の中に見出すことはできるのです。でも僕らはふつう虹を見るときに黄緑の存在は意識しません。

寿命と言う時間は年単位、一か月単位、1日単位、時間、分、秒…切れ目のない連続性の中で、いったいどこからが寿命が延びたという効果につながるのかヒトが意識の中で薬の「効果」を規定しているもの、それは極めて恣意的です。薬の効果を期待している個人個々の感覚と、現実に現れる薬剤効果が一致するかどうか、指しあたって重要なのはこういう事なのだと思います

主観的な薬剤効果を考えるうえで、実は客観的データに裏付けされた薬剤効果はあまり大きな意味を持ちません。人は薬剤効果を裏付けたエビデンスの存在と言うよりはむしろ自分の認識の中で意味のある物かどうかと言うところで薬の効果を判断しています。すなわち薬が効いたのか効かないのかは多くの場合、個々個人の文脈に依存しています。そしてその効果の尺度は虹の光のスペクトルのような連続帯の中で個人の感覚的なものによって分節されているのです。

主観的な薬の効果において、真のアウトカムと代用のアウトカムという軸は大切ですが、さらにそれぞれの効果の尺度は連続帯で存在するという事であり、人が恣意的にその尺度を効果あり、なしみたいに分節しているという、もう一つの軸が存在することに気づきます。
アドヒアランスなど物理的要因を排除すれば、薬剤の主観的な効果は以下のような3つ要素でとらえることができます。

主観的薬剤効果
←効果なし 有効性の尺度(連続帯) 効果あり
真のアウトカム




A

B
代用のアウトカム

C






連続帯の中のどこからが「効果あり」なのかはヒトの認識の中にある「意味」によって分節されていきます。医療者、患者に関わらず考察すれば、あるヒトはAという有効性が得られれば効果あり、と思うかもしれないし、別の人はBという有効性が得られなければ効果があるとは感じないかもしれません。Cという有効性さえ得られれば効果ありと思う人もいるかもしれません。
また真のアウトカムは多くの場合、自分自身でその効果を確かめることが相当困難であるという事が分かります。例えば死亡リスクが減るという真のアウトカムは客観的薬剤効果でこそ示せるものの(示せると言っても統計的に…ですが)、主観的にこれを“感じる”ことは難しい。だから現実的には多くの人が代用のアウトカムを基準に主観的な薬剤効果を判断しているという構造が浮き彫りになります

ヒトは生物学的システムという科学理論で合理的な解釈ができるような認識があるかと思えば、一方では自分の認識の中に存在する「意味」で編まれていることの方が多いという事は往々にしてあります。プラセボ効果と言うのは、体の中での生化学的反応、薬理学的反応、薬物動態学的反応と言うよりはむしろ、ヒトが作り出した「意味」によって規定されるものだと考えられます。

特に真のアウトカムに関してエビデンスと言う客観的データの前に圧倒的無力な健康食品が「効くのか」「効かないのか」という判断は、客観的なデータに基づく有効性の強弱が重要なのではなく、薬剤有効性尺度の連続帯にヒトが編み上げた『意味』が切れ目を入れているということです。ヒトによってはこの健康食品がよく効いた、とか全く効果ないよ、と言うのは、代用のアウトカム、真のアウトカムに関わらず、そのヒト個々の基礎疾患や背景因子などを含む文脈に沿った「意味」により編み上げられた認識が大きなウエイトを占めてくると考えられます。

[早めの風邪薬に見える構造]

医療を受ける人は主観的薬剤効果を重視する傾向がある

風邪をひいたら早めに病院へ行って抗生剤をもらおう、とか早めに風邪薬を飲んでおこう、と言うのはこの社会において人々が共有している共通合意であることは、その学術的な正しさを差し置けば、大きな間違えではありません。物事、認識の正しさは学術的な妥当性よりはむしろ、社会合意(意味)が編み上げるというのはいままで見てきたとおりです。
風邪のひきはじめに、早めに薬を飲むというのはどういう事なのでしょうか。パブロンを飲もうが、葛根湯を飲もうが、約4分の1の人は悪化するし、症状が変わらない人もいれば、軽快する人もいる。パブロンだろうが葛根湯だろうが大きな差は無い、という事は客観的な薬剤効果として示されています。(Intern Med. 2014;53(9):949-56. Epub 2014 May 1. PMID: 24785885

この論文を読むとお分かりいただけるかもしれませんが、風邪の症状スコアで評価したこの悪化、軽快というのは、客観的データと言いつつも、実はその半分は『意味』 で編み上げられているようにも思えます。ヒトの半分は生物学的理屈じゃなくて、『意味』で編まれているという事からすれば、薬が効くのか、効かないのか、そういう視点がはやはり大きな意味をなさないように思います。先にも述べたとおり、薬が効くのか効かないのかというのは、その尺度の連続体に『意味』が切れ目を入れているというファクターがかなり大きいのです。世間一般では薬で治療を受けることが当たり前だという社会合意が存在する中で、客観的データの有効性よりはむしろ、薬剤効果は恣意的に決められているのかもしれない、人の認識とはおおよそ誰にとっても同一に見えるような客観的薬剤効果よりむしろ自分にとってだけの「意味」である主観的薬剤効果の方が重視される傾向にある、そういったことが垣間見えます。

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