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2012年7月15日日曜日

「時間を生み出すエビデンス」と「同一性が担保されたナラティブ」

まだ考えがまとまらないが、とりあえず今までに考えたことを少し整理します。

臨床試験は時間の流れの中でそのアウトカムが生み出されますが、
実際に活用する「論文」という媒体では時間の流れを止めた状態で
アウトカムが統計解析され客観的な数値が提示されます。
しかし実際の患者の思いは常に変化していきます。
治療そのものは患者さんのQOLを必ずしもあげるとは限らない。
多くの場合、通院負担、経済負担、生活制限負担などQOLは低下するものです。
そのような中で患者さんの思いもまた、
それぞれの生活環境変化で常に変化しています。
エビデンス・プラクティスギャップを考える上でこのような配慮は重要だと考えます。

論文結果という「時間の無い同一性が担保されたエビデンス」と
患者の思い「時間を生みだすナラティブ」。
この間に医療というもの、
また医療者としてのかかわり方を模索しなくてはいけないと考えます。
そしてあえて「時間を生み出すエビデンス」「同一性が担保されたナラティブ」
というものを探したいと思います。

例えば、「高血圧」という現象は、病気なのでしょうか。
診断基準に当てはまれば「高血圧」という病気なのでしょうか。
10年後の脳卒中リスクが高まるかもしれませんが、
診断基準を満たしたとして10年後に脳卒中を起こさなかった人たちは
「高血圧」であったと言えるののでしょうか。
漫然と降圧効果だけを求める薬剤選択に大きな意味はないとおもいます。

脳卒中をはじめとする降圧治療の真のアウトカムと呼ばれるものは
時間の流れの中で、血圧が高いほどリスクが高くなることは間違えないとおもいます。
基準値にも根拠がありますし、降圧薬にもエビデンスがありますが、
大事なのは現時点で将来の真のリスクが必ず発生するものとしてとらえた場合のみ
「高血圧」という病気は存在するのではないでしょうか。

そして、そのような観点に「同一性が担保されたナラティブ」
というものが見え隠れする気がします。
要するに今目の前にいる患者に、
血圧が高いから「高血圧」であるとする思考停止は問題だと思うのです。
そこに医療者自身の経験と患者への思い、
そして将来リスクを加味した臨床判断が求められるのではないかと。
そこに「時間を生み出すエビデンス」が見いだせる気がします。

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