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2013年11月17日日曜日

EBMそして“認識”の問題


いったい自分の認識が、その認識している対象の客観と正確に一致している保証はどこにあるというのでしょうか。「cogito ergo sum」で有名なデカルトは先入観をすべて取り去り、あらゆるものを疑うことで真理に至ろうとしました。しかしながら、はたして“真理”というものは本当に存在するのでしょうか。

カントは客観それ自体の認識を神がもつような完全な認識だけに可能であるとしました。客観それ自体をカントは「物自体」といい、人間には原理的に自分の感覚や概念が客観と一致することはないというわけです。

それに対してフッサールは「客観」など存在しないと言います。「客観」とは一体なんでしょうか。さしあたって言えば私自身にのみに存在するものではないということかもしれません。すべての他者にとっても存在しうるもの、いいかえれば普遍の同一性というものが「客観」の本質として言っても支障はなさそうです。

「客観」としてのリンゴはたとえば猫にはどう認識されているのだろうかとかんがえてみます。丸くて硬いもの。人間の認識であれば赤くておいしそうな果物としてのリンゴというのが同一に認識されるであろうかと思います。カントの言うように「完全な客観としてのリンゴ」は神のような存在でしか認識できないかもしれませんが、そもそもヒトが言う「客観」とは我々が経験認識したものにすぎません。カントの言うような物自体があるとしてもそれはヒトにはとうてい認識することができないのです。このように原理的に経験できない「客観」というものはなるほど確かに存在しないとかんがえられます。

では「客観」ということをどうとらえればよいのでしょうか。確かに一つの事柄は実際に存在します。しかしながらそれをどう認識するかは人それぞれです。解釈の価値観は、それを受け取る主体に依存しており、その主体間の同一性が「客観」なるものを生み出すということになります。
病気の症状という「認識」を医療者がどうとらえるかということを考えたとき、様々な考え方があると思いますが、「認識」や「価値評価」を完全に一致させることでは事実上不可能であるのであれば、必要に応じてこれを一致させることができるかどうかという可能性を探ることが、患者との対話において重要ではないかということに気づくのです

エビデンスはいつも曖昧だ。たとえ論文を10本読んだところで何も見えてこないことだってしばしばあります。結局効果があるのか無いのか、真の値、「ほんとう」の効果はどこにあるのかと考えたときに、結局そのような「ほんとう」の効果を僕らは知りえないのだということが論文を読めば読むほど、統計を学べば学ぶほど、患者に向き合えば向き合うほど明確になっていきます。

統計的・疫学的観点からナラティブも含めて医学論文と照らし合わせても、ギャップこそ明確になるもののそれをどう取り扱えば良いのかはあいまいな答えしかない。僕は曖昧なことこそ明確にわかるとそれを結論することができるが、その先がいまいち見えてきません。

ひとつ現象論が教えてくれるのは、完全な共通認識にこだわるのではなく必要に応じて認識を一致させる可能性があるのか無いのか、要するにそれこそが重要だということです。これが認識問題の本質であるかもしれません。何が正しいのか。ではなく共通了解の可能性。
またもう一方で薬の効果のような治療の有効性、それを定量的に示したものがエビデンスの相対リスクなり、NNTではありますが、その真の値を、推定検定統計になかに完全なる「客観」を求めるのではなく、必要に応じて客観的値の適用可能性を熟慮することこそ大切だということです。共通了解の可能性。この薬効くよねというクオリアが、統計的有意差を超えていく。そう言ったことが現実にはままあるし、逆もあります。

近代哲学の大きなテーマである「主観-客観」の問題を世界観や価値観が対立したときにおいて「共通了解の可能性の原理の問題」へとシフトすることが現象論のコンセプトだと思います。これは僕なりの解釈ですが、認識の共通了解が、それが本当に正しいかどうかをとりあえず置いておいて、さしあたって客観と呼べるような「ほんとう」の世界だということです。これを踏まえれば、いかに一つのエビデンスが統計的に有効という結果を示していても、それは状況によって、効果が期待できない報告にも振れるし、もっと効果が有る方に振れる可能性も秘めているということがあらためて浮き彫りになってきます。主観-客観の問題もある意味、相対化がキーワードかもしれない。絶対的な一致を認識することにこだわるのはあまり意味がないし、さしあたっては不要な問題ではあります。


EBMは相対化であるという。患者アウトカムを絶対的な客観評価をすれば、エビデンスを適用すべきかどうかというエビデンスはこの先も出ないであろうし、そんなことはきっと永遠に分からないことなのだろう。それを込みにしても僕がEBMの模索を続けるのは、やはり医療者と患者の相互了解に基づく相対的により良い医療を目指しているからに他なりません。ときにエビデンスに基づかない医療の重要性も浮き彫りとなります。いやいや、エビデンスはただただ科学的根拠だけではないのがEBM。客観的事実が存在するか不明と言うことが明確になる中で、医療者と患者の相互了解に基づく相対的思考の重要性が垣間見えたきがしました。

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