[お知らせ]


2013年3月11日月曜日

リスクの価値観


リスクに対する価値観を一律に平均化することも多いマスメディアは個人的にはあまり好きではありません。集団心理が拍車をかけ、世の中がリスクへの恐怖とそれを回避する方向へ動いていく。それが結局正しかったのかどうかは後になってみてもよくわからないことも多いと思います。ノロウイルス、インフルエンザ、ロタウイルス、PM2.5 、花粉症…奇妙な商品も続々発売されました。その繰り返しの中で、医療はどう歩んできたか、時折、振り返ってみるのも悪くないと思います。既存の疾患だけではなく、新たに生み出されていく概念にも注目していきたいと思います。ゼロリスクを求める集団心理、時にメディアに促され爆発的に増大したその心理は、ウイルス除去をうたった商品の流通が停止するほど、どこか…に向かって動いていきます。

ゼロリスクを求める人生は不可能だと思います。どんな人生においても、明日は今日よりもあらゆるリスクの発生する確率は上昇します。たとえば加齢そのもの、あるいは交通事故、自然災害。どんな状況でもエントロピー(乱雑さ)は増大していきます。形あるものはいつか壊れる。これが生きるということだと思います。秩序あるものから無秩序なものへ。すなわち熱力学の第一法則に生命というものも逆らうことができない、そんな気がします。でもそんな人生を受け入れて過ごすことに違和感を感じる人は、そう多くはないのです。それはどこかで折り合いをつけてリスクそのものを受け入れているのだからだと思います。

リスク回避を切望し、どんなにリスクを回避する手段に時間を費やしたとしても、それほど費やさなく生きた場合と比べて、最終的なアウトカムに大きな差はないのではないかと最近思います。リスクを回避する手段に関して世の中、情報であふれています。妥当性はともかく、どれもが正解であるように思われる情報に対して、正しい判断なんて多くの場合で不可能です。正しかったかどうかなんて、決断を下す時点では預言者でもない限り、誰にも分からないということだけは、はっきりとわかります。情報量が限りなく増え続ける現代社会において、選択肢が増え続けるということは、正しい判断が益々困難になっていくことを示しています。

ミスマッチ(ここでは、間違ったかもしれない判断という意味です)を一つの答えとして受け入れていくことも必要だし、人生においてそれは多くの人がしばしば経験しているはずです。後悔という感情もまた人生の旨味ととらえると少し楽になる気がします。全てにおいて、正しい判断に近づくために努力することはとても大事だと思います。ただその結果がどうあれ、それを受け入れながら、受け入れることの困難さと共に歩んでいくことも大切なのかもしれません。リスクのある人生に折り合いをつけて、今ある時間を楽しく過ごすと、ある意味で健康とはここを目指すことなのではないでしょうか。医療が目指す先は、その折り合いの中で人が生きるということの本当の意味を見出すことにあるのではないかと思います。明日になれば、また一つハイリスクになる。それが生きるということです。

リスクの価値観はEvidence-based medicineを実践するうえでとても重要なファクターだととらえています。もしかしたらEBMをも包括する概念の一部に「リスクに対する価値観」と医療というテーマがあるのかもしれません。今の僕には雲の上のような世界ですが、少しずつ坂を登って行こうと思います。

0 件のコメント:

コメントを投稿