一般的に物の考えや主観的なものは人それぞれですが、物理的存在は客観的にみても存在することが「常識的」に認識されているので人による味方に違いはないと考えられます。でも本当にそう言えるのでしょうか。
内田樹氏によれば、「私たちにとって自明と思えることは、ある時代や地域に固有の「偏見」にほかならない。私たちは自分達が思っているほど自由に主体的に物を見ているわけではない」と述べられています。(内田樹:寝ながら学べる構造主義)
「主観」と「客観」は一致するのでしょうか。フッサールの現象学はどんな物理的事象もそのすべてを客観的にみているようで、実際には見ていないかもしれない。ものごと客観的な事実から成りたっているのではなく、個人ごとに自分の経験や考え方、などから“実存的”に生まれてくる個人ごとの世界から成りたっていると言えるのではないか。と疑問を投げかけます。
健康診断を例に考えてみます。多くの人が健康診断を受けるということは健康で生きるためにあたりまえだと認識しています。そして健康診断を受けることで、より健康的な生活を手に入れられると認識しています。健康診断を受けることが正しい判断だと考えています。その認識の根拠はいったい何でしょうか。病気が早期に発見できるからかでしょうか?では、早期発見できるということが健康な生活につながるという明確な根拠があるのでしょうか。このような確信はどこから生まれるのでしょうか?
ヒトはごく当たり前のことを疑うということをあまりしません。たとえば「現実世界」を疑う余地もないという見方で認識しています。目の前にあるもの、手に触れた感触、視界に入る世界。でも実は僕らが見ている「夢」の中でも同じ体験をしているはずだとおもいます。今、現実だと認識していこの世界が「夢」ではないする根拠は何でしょうか。その根拠は客観的に明確には規定できませんが、この世界は夢じゃないという確信がヒトにはあります。フッサールはこの確信の根拠について「内在」という概念を用いています。
たとえば今目の前にリンゴがあったとします。目の前のリンゴははたして本当にリンゴなのか、幼児の時から無批判に受け入れてきた先入観を排除し、真理に至るために、一旦全てのものを疑うというデカルト的思考に従えば、リンゴは果てしなくリンゴでないものとしてみることが可能です。たとえば木でできた置物であるとか、ガラス細工であるとか。では実際に食べてみたらどでしょうか。僕らが知覚しているリンゴの味と同等のものであれば、それはリンゴであり、たとえ最新の科学技術で作られた合成リンゴであろうとも、その味覚を感じた時点ではリンゴとして認識されます。この時点では見た目がリンゴで「リンゴの味」さえすれば、それがリンゴでなかろうと、“リンゴではないと疑う根拠を失う”ということです。「ひょっとしておいしくなかった」という問いはあり得ないのです。こういったリンゴとしての意味や満たされた思いを内在と表現していますが、この内在こそがある事象の「明証性」を根拠づけているといいます。
「明証性」とは世の中の諸事象に対する自然な信憑性(確信)の底辺を支える根本であるといいます。(竹田青嗣:現象学入門) 意識の「内在」こそが対象事象を疑う動機の限界を意味づけ事象に対する人の明証性を根拠づけているのです。
健康診断の血液検査や尿検査等により目に見えるデータとしての臨床検査値、そしてその値が、基準値と大きく逸脱していないか、データに異常がないという、そこから得られる内在としての安心感。これが健康診断を正当化する根拠であるといえるかもしれません。医学的に「異常の無いデータ」がもたらすこの「内在」が健康診断を行うことが大切であるという明証性を生み出しているような気がします。でもこの臨床検査値、客観的なデータに基づく物理的事象をみていると考えがちですが、臨床検査知そのものが恣意的です。ある数値である現象が起こりやすい可能性が高まるという境界をヒトが恣意的に線引きしたに過ぎません。臨床検査データをみたその瞬間ではそれ以上でもそれ以下でもないということかもしれません。疑う余地を残しているものを内在と対比して超越と呼びますが、この臨床検査値のようなものから得られる事象は超越と呼べるのかもしれません。
実際に健康診断は有用なのでしょうか。昨年のコクラン、Cochrane Database Syst
Rev. 2012 Oct 17;10:CD009009 PMID 23076952 では14のランダム化比較試験のメタ分析で、健康診断を受診した群は受診しなかった群に比べて総死亡、心血管死亡、癌死亡は同等であったというかなり衝撃できなものでした。総死亡に対するハザード比は0.99(95%信頼区間0.95 ~
1.03)となっており、検診を受けることの有用性を見いだせないような結果になっています。
(参考)健康診断は有用か?
ランダム化比較試験のメタ分析、その内的妥当性は侮れませんが、外的妥当性というものを考えた場合、このメタ分析の結果をどうとらえるべきなのでしょうか。僕は有効性については「少なめに見積もる」という認識から、この文献を読んだ当時、健康診断で人は死亡を先送りできない可能性があると結論しました。誰も病気で苦しむ前に早く見つけて、症状が出ないよう、苦しむことの無いよう、健康に生きたい、そう思うはずです。だから健康診断で異常がないか、早期に発見し、症状が進行する前に治療を受けたい。そう思うものです。外的妥当性とういう観点から、健康診断の実効性を評価した日本人を対象にした観察研究をみてみます。結果は死亡は減るという結果でした。
Participation in health
check-ups and mortality using propensity score matched cohort analyses
■全原因死亡
男性▶調整ハザード比:0.74 (95%信頼区間0.62-0.88)
女性▶調整ハザード比:0.69 (95%信頼区間0.52-0.91)
また定期健診を10年受け続けることで死亡がへるという報告もありました。
Relationship between the achievement
of successive periodic health examinations and the risk of dying. Appraisal of
a prevention scheme.
良い、悪いといった判断や評価をとりあえずカッコにいれ、思考をリセットするプロセスは現象学では「判断停止=エポケー」と言いますが、このような思考過程はしばしば重要です。人はごくごく当たり前のことととらえているものに、疑問を持つことがなかなか難しいといえるからです。健康診断がすべての人に有用なことなのか、エビデンスが教えてくれるのはこれが限界ではあります。ただそのエビデンスの結果をすべての患者に当てはめようとするのではなく、患者個人個人が意識の底に有する健康診断に対する「内在」というものを大事にしながら、健康診断で人は幸せになれるのか、こういった疑問を大事にしていきたいと考えています。
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