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2013年10月7日月曜日

薬が効くとは何か

[完璧な“円”は存在するか?]
「円」、お金の¥ではなく図形としての「円」を考えてみようか。完璧な円とはなにか、考えたことが有るだろうか。そんなものは実は誰も見たことがないのかもしれない。すなわち、イデアとしての「円」は存在しない。と最近そんな風に思います。
それは概念としてのみ存在し、「円」に見えているようなものは実は「円」ではなくて、脳が作り出したイメージにすぎないかもしれない。「完璧」な円など知りえないのだと言えるかもしれません。
同様に円周率πも実在しないかもしれません。無限に続く数値の羅列の中で、少なくとも数値として記述することは不可能です。これも概念としてのみ存在すると言えます。
円周率が特定できないのになぜ「円」が存在するのか。僕はずっと疑問を感じていました。「円」そのものがイデアであり、その「円」はただのイメージである。そんなものは現実には存在しない。そう考えると、何か腑に落ちるものが有って、そのような観点で、いろいろ考えてみると、なかなかに興味深いのはこの世界そのものだということに気づきます。
たとえば「無限」を知っていますか。無限の本とか、無限に広がる海とか。そのすべてを見たことはおそらくないでしょう。そんなものは無限であるがゆえにこの目で見ることは、なるほど確かに不可能ですが、僕らの脳は無限を受け入れ無限のものとして処理できる。そう、イメージの世界として処理することは可能です。

[風邪薬を服用したというクオリア]
おそらく“早めの風邪薬”の効果も似たようなものだと考えています。少なくとも現代の医科学で“早めの風邪薬”の具体的な効果を科学的根拠に基づいて記述することは相当困難であるといえます。“早めの風邪薬”を服用するというクオリアが、「効いたよね」と記述されることもあれば、「そんなもの聞くか」と記述されることもあります。早めの風邪薬の効果は、「円」がこの世に存在するというイメージや無限に広がる海を実際に見たことがないのに無限に広がる海として処理されるのと同じように、早めの風邪薬が効くかどうか実際には良くわからないのに「効いたよね」と記述されることはイメージの世界であると思います。
そう考えればすべての薬が効くのか効かないのか実際には分からないということにつながっていきます。薬を飲んだというクオリアが、「効く」こともあれば「効かない」こともある。これはランダム化比較試験に代表されるようなエビデンスの結果でたとえ有意差があっても「効く」こともあれば「効かない」こともあるということなのだとおもいます。すなわち、臨床試験の結果もまたイメージの世界でしかないのかもしれないと感じています。そして実は薬が効くということはそれほど重要ではないのかも知れません。

[重要なのはモノ自体の薬が効くか効かないかということではない]
アボカド醤油とマグロの刺身はなかなか興味深い問題です。アボカドにわさび醤油をかけるとマグロの刺身の味がする。いやこれだまされたと思ってやってみると案外いけます。これをマグロと混ぜて海鮮丼にしても、やはり海鮮丼なのです。駄菓子の豚カツを卵でとじてご飯にかけたらカツ丼。これも興味深い。駄菓子のとんかつは今でも売っているのだろうか。まぁグルメな人は別としても、海鮮丼もカツ丼もマグロかどうか、豚カツかどうか、実はあまり重要ではないかもしれません。そういう白黒つけることは大事なことのように思えて、実はどうでもいいこと。要は海鮮丼やかつ丼としておいしく食べればそれで良いじゃないかと思ったりします。インフルエンザかどうかはあまり重要ではないかもしれないし、多くの人でインフルエンザ検査はそのような観点からしたら不要かもしれない。結局、医療介入がなんであれ、患者が患者自身の人生における不条理を受け入れつつもその老いと共に出来る限り健やかに生きていける、というところを目指してるなかで、この薬が効くかどうか、この検査が有効かどうか、そういう白も黒も無いでしょう。
マグロかアボカドか決めることにあまり意味がないように、とくにプライマリケアでは病気かそうでないかなんて、実はどうでもよかったりします。専門医がみるような専門的な疾患はまた別かもしれませんが、たとえばノロウイルス感染症において、ノロウイルス感染症かどうかを決めたとして治療は同じでしょう。ただ吐き気と下痢があるだけです。ノロウイルス感染症かどうかは重要ではないなんて最近は思います。同様にモノ自体(化学物質としての)薬が効くか効かないのかという客観的なデータにあまり意味がないようにも感じます。それはモノ自体の薬の効果というものは、ヒトにおけるクオリアによって実に様々なコトバを作り出すからです。モノ自体の薬がたとえプラセボでもある人にとっては症状が楽になったというクオリアを生み出し、この薬は効くという言葉として記述されます。

[リンゴは赤い。しかし皆が同じ赤を見ているか]

リンゴの赤。赤を見ている時、僕らはそれを赤と感じます。緑に感じることは不可能だし、たとえ青だ言われても赤と感じてしまうものはしょうがない。今隣に色盲のヒトがいたとして、リンゴの赤をどう説明しようか。コトバと現象の間の溝はとてつもなく深い。色は、たとえ色盲じゃなくてもみんな本当に同じに見えてるんだろうか。病気の症状を表したコトバと病気やそのものの現象や、モノ自体としての薬の効果を規定した客観的データと薬を服用したというクオリアのギャップは思いのほか大きいかもしれない。

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